2008年05月21日(水) 譲る。
「みんなが倖せであれ」と大抵の人が思っていて(勿論「みんな」の中には「自分」も入っていて)、そのような世界の実現に向けて誰もが小さな努力をしたりしなかったりなのだけど、小さな努力の中の「譲り合う」がなかなかできない人が、やっぱりいたりする。
「譲り合う」をするためには先ず自分が譲って、そして相手も譲ってくれるという二段階を踏まなくてはならない(勿論、譲る順番は相手が先であっても構わない)。自分が譲らなかったり、自分が譲っても相手が譲ってくれなかったりすると「譲り合い」は成立しない。つまり、二人以上の人が関わり合って、誰か一人が譲らなかった場合、「譲り合う」はなくなる。
さあ、「譲らなかった人」は何故譲らなかったのだろう。
「守りたかった」とか「惜しかった」とか「欲張ってしまった」とか、理由はさまざまかもしれない。しかし何より、その人は「譲るよろこび」を知らなかったのではないか、と私は思う。手許の何かを守り通すよりも大きなよろこびが「譲る」ことによって得られるなら、きっとそうするのではないだろうか。
「譲るよろこび」は「譲ることによって相手がよろこぶのを見るよろこび」とは違う。侘びたよろこびなのでおそらく一〇代や二〇代の若年層の人には判らない。三〇代や四〇代でも人によっては「そんなものある訳がない」と思っているかもしれない。しかしあるのである。譲ることそのものが愉しかったりうれしかったりすることが現実にあるのである。
「譲るよろこび」を知ると、争ったり急いたり苛立ったりということがとても少なくなり、毎日が平和だ。これを退屈な日々と思う人もいるだろう。だが退屈な日々を憂える必要はない。そのように思う人たちにはおそらく「譲るよろこび」などというものはまだ判らないだろうからだ。
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さて、ここまで書いて「はて、ぼくはいったい何を言いたかったのだろう」と自分で思っています。でもせっかく書いたから残しておきます。書き逃げ御免。
追記。
今日泊亜蘭先生が亡くなられたことを、今日知った。もう何年も「光の塔」を探しているが、まだ手に入らない。