二一日土曜日の夜に出発する夜行バスに乗って、生まれてはじめて横浜市に寄せて頂いた。到着は二二日の早朝だった。
横浜市は二〇年以上も前からぼくの憧れの街だった。ぼくがはじめて自分の小遣いで買った文庫本は或る映画のノベライズ版だったのだが、その小説の舞台が横浜だった。ミナト・ヨコハマ。マリンタワー。山下公園。氷川丸。旧いものを大事に残し新しいものを広く受け容れる粋でハイカラな街。それがぼくがその小説を通して知った横浜という街だった。
その小説はぼくにとって特別な作品でもある。その作品を模倣することからぼくは文章を書く練習をはじめた。その作品がなければぼくはいま頃、小説を書いてはいなかったかもしれない。創作の題材に横浜という街を取り入れたことはまだないが、小説に限らずぼくが何かを書くときにはいつも何処かにかの街を感じているように思う。
だから、行ったこともないのに親しみを感じる街だった。一度は行ってみたい街だった。しかし、二〇年以上もの間、その機会は得られることがなかった。
それが、今年まさかの幸運で、海上自衛隊観艦式乗艦券を入手することができた。観艦式については昨日付の当頁に既に書いたのでそちらを御覧ありたい。ぼくが入手した乗艦券が指定した艦は、横浜市の瑞穂埠頭から出ることになっていた。観艦式予行演習を見学できるのも横浜という街を訪れることも、千載一遇の機会だ。乗艦券が思いがけず自宅に届いてからぼくは慌てて旅の支度をした。
移動手段は夜行バスを使うことにした。地元の鉄道駅から横浜駅まで直通で、鉄道を利用するよりも時間は掛かるが料金が安い。そのバスの時間に合わせて日程を組もうとすると、観艦式日程を終えてから復路便発車までの時間が四時間ばかり空く。この時間を利用して街を見ようと思った。
いまはインターネットという便利なものもあって、観光情報を集めるのも比較的簡単だ。だがぼくには横浜という街をよく知っている知り合いがいた。
桜井弓月さんである。以前に仕事を御一緒させて頂いたことがある。とはいえ、インターネットを介してしかお互いを知らないのだけど。
桜井さんは横浜市在住の作家。御作に横浜の街を描写したものがあり、それを拝読したぼくは古くからのかの街への憧れを更に強くしたものだった。この人に訊ねない手はない。多少厚かましいかとも思ったが、ぼくは早速メールで「横浜初心者が見るべき横浜を教えてほしい」と連絡を取った。
桜井さんはとても親切で、直ぐに丁寧な解説を綴ったメールを返信してくださった。それに従ってインターネット上の観光情報を閲覧してみると、如何にも愉しい。訊ねて正解だった。しかも頂いたメールのお終い近くにはこう添えられていた。
「よろしければなのですが、衛澤さんが横浜巡りの計画を立てられてみて時間が空きそうでしたら、ご一緒にお食事でもいかがでしょうか。
せっかくの機会ですし、実際にお会いできるチャンスも滅多にないでしょうから。」
何と! うら若き乙女から食事のお誘いを受けるとは! おじさん吃驚だ!
「ぜひ御一緒に!」とパソコンモニタに向かって声に出して言ってしまったさ。実は御作やサイト日記等を拝読していて一度お会いして御話してみたいと、ぼくもずっと思っていたのだ。でも「そっちに行くから会ってくれんか」というのはあまりにも図々しかろうと、言うに言えなかった。そこへ持ってきてのお誘いなのでこれは二ツ返事で承諾しなければなるまい。
モニタに向かって口頭で返事をしてから、改めて「ぜひよろしく」のメールを送信した。舞い上がって書いたので、送信した後で「失礼なことを書いてはいなかっただろうか」と少し不安になったりした。
その後数通のメールをやり取りした後、お会いすることが実現した。直前に頂いたメールでは、プライベートの連絡先を教えてくださった上で「当日、何かお困りのことがありましたら、待ち合わせの件でなくても、横浜にお着きになった朝の時間帯でも構いませんので、どうぞ遠慮なくご連絡下さい。」というこの上なく親切な御心遣いをくださった。何て親切で行き届いた人なんだろう、とひたすら感心する。
観艦式のついでに街を歩いてみよう、と日没後の日程はほんとうに「おまけ」くらいに考えていたのだが、実際には昼も夜も同じくらい重要かつ有意義な時間となった。
待ち合わせは横浜駅改札口前で、現れた桜井さんはほっそりとして、可憐な人だった。どれくらい可憐かと言うと、御姿を拝見した途端に「可憐だ」と小声で呟いてしまったほどだ。土産ものを買うのに付き合って頂いた後、地下街で食事を御一緒することに。
地図を見ながら「何が食べたいですか」と訊ねてくだすったので、ぼくは「中華がいい」とお答えした。観艦式予行を終えた艦が入港するときに、街から中華料理の旨そうな匂いが押し寄せてきてぼくの胃袋を鳴らしたからだ。では、と地図を見つつ店に向かったのだが、暫く地下街を徘徊することになった。
ぼくも桜井さんも、二人揃って地図を見ながらでも迷ってしまう方向音痴だった。
何とか無事に辿り着いた店はラーメンと餃子の店。席に着いたところで名刺交換。シンプルかつかわいらしいデザインの御名刺を頂いた。白い紙面にピンク色の桜の花が流れるように散っている。その優雅さは「桜井弓月」という御名前に似合っているし、御本人にもよく似合っている。
それから、横浜の街について簡単な質問などさせて頂くことから、話をはじめる。桜井さんはほんわかとした喋り方をなさる人で、暴走しがちなぼくの話をにこにこしながら聞いてくれて、上手に相槌を打ち、笑ってほしいところで笑ってくださる。はじめて会う人と話すときにはぼくはひどく緊張しがちなのだが、桜井さんは他人を緊張させない雰囲気を漂わせていて、ぼくははじめて話す気がしなかった。
これと言ったテーマを決めることもなく、ラーメンと炒飯のセットをずるずるがつがつやりながら、思いつくままにぼくは喋った。相手によっては話題の取り方やネタの混ぜ方で怒られたり厭がられたりすることもあるので、ぼくはときどき「こんなことを話していいのかな」と訊ねたが、すべておおらかに許してくだすった。些末なことにこだわらない人らしい。とても有難い。
街の話、観艦式の話、仕事の話、家族の話、漫画の話、Jの人(笑)の話、どんな種類の話題にも、たとえヲタクっぽい話にでも食いついてくれるし、聞くばかりでなく突っ込みも入れてくれるしいろいろと話題を提供してもくださるので、話してとても気分がよかった。一〇歳ほど年令が違うので話が合わなかったらどうしようかと思ったりもしたが、杞憂だった。お会いできてよかったと、ほんとうに思った。
店内にぼく等以外の客がいなくなるまで話した。二時間ほどだっただろうか。桜井さんに許された時間一杯まで話し込んでしまい、それにぎりぎりで気付いたぼくがそれを告げると、桜井さんは「あっと言う間ですね」と仰った。うれしかった。二時間と言えば映画一本が見られる時間だ。その長い時間を短く感じて頂けたということは、ぼくと話すことを愉しんで頂けたということだと思っていいのではないだろうか。よかった。ほんとうによかった。
遅くまでお引き留めしてはいけないので、話はそこまで。店を出ましょうというところで桜井さんは何と兼ねて御用意の御土産を手渡してくだすった。何ということでしょう。お休みの日にお付き合いくだすった上に御土産まで。御世話になりっ放しだ。
重ね重ね有難うございます。頂いた横浜銘菓、おいしく頂きました。少しずつ喰えばいいのに一日で喰ってしまった。だってほんとに旨かったんだ。
横浜に行ってよかった。ほんとうにそう思う。まだ街を見てまわるということはできていないが、ぼくは横浜という街を以前よりもっと好きになった。愉しい体験ができたからだ。日中も日没後もほんとうに愉しかった。お別れ際に「また呼んでください」と言うと、桜井さんは頷いてくだすった。つくづくいい人だ。
必ずもう一度横浜を訪れたいと思っています。そのときにはメールで勧めてくだすった街を一緒に歩いてください。そして、これもお勧めの豚角煮まんを一緒に食べましょう。これはぼくが奢ります。よろしく、桜井さん。
……あ、何か恋文みたいだ(^_^;)。
ちなみに御案内頂いて買った土産ものはこれ。
「
シュウマイくんとギョーザちゃん」という、横浜名物をキャラクタ化したもの。写真はシュウマイくんキイホルダー。これはオーソドックスな白色だが、ほかに緑色や赤色や黄色など、風水にちなんだ色のものがあった。
白色以外は焼売だと判りづらいのが難点か。頭の天辺にはグリンピースが乗っている。