衛澤のどーでもよさげ。
2006年09月29日(金) 枠の外にいるよ。

一寸先は不透明の衛澤です。

まだ世を忍ぶ仮の女性だった頃、ぼくは或る会社で現場のチームリーダーをやっていたことがある。「アシスタント・スーパーバイザー」というとても偉そうな役職名が付いていたが、やっていることは学級委員と大差なかった。現場で一番偉い人からの通達を現場の人みんなに伝えたり、現場の人を代表して偉い人の小言を聞いたり、備品の管理をしたり、そんな仕事をほかの人よりも余分にしていた。
この余分な仕事のひとつに「日誌を書く」というのもあった。

当然、その日誌は手で書いて提出する。当たり前に必要事項を書いていたが、書いたものを見て吃驚してくれる人が割りと多かった。吃驚の内容には「見掛けによらずきれいな字を書く」というよろこんでいいのか怒った方がいいのかよく判らないものもあったが、他方で結構頻繁にこういうことも言われた。
「〈喋る〉や〈貰う〉を漢字で書くって、すごい」
言ってくれる人はその度に違って、また、どの人もほんとうにそう思って言ってくれているのだということは判っているつもりではあったが、あまりうれしくなかった。ぼくはやって当たり前のことをやっているだけだと思っていたからだ。「歩くときに左右の足を交互に出すなんてすごい」と言って貰っているのと同じ気分だと言えば御理解頂けるだろうか。
本心で誉めて貰ってもうれしくないことはあるのだと、ぼくはこのときに知った。

さて後年、別の場面で似た気分になることがあった。ぼくが世を忍ばなくなってからのことだ。
三〇歳を過ぎてから、性同一性障害当事者として他人さまと会う機会が増えて、そういう肩書きでお会いした人の半数くらいが「苦労されたんですね」とか「大変でしたね」とか「乗り越えてきたんですね」とか言ってくださる。ほんとうに感心してそう言ってくださるようなのだが、その共感がぼくはあまりうれしくない。その度にぼくは、口には出さないけどこう思う。
「御免、おれ苦労してないんだ」
確かに大変な思いをしたこともある。そのことを話すこともある。でもそれは大抵、その大変さを「笑う話」としてしているつもりなので、感心されてしまうとぼくは「喋りが下手になったか」とちょっとへこむ。ぼくは普通に生活してきた中でちょっとめずらしい体験をしただけで、「苦労して、乗り越えて」きたとは思っていないからだ。道を歩いていて、とてつもなくでっかい石にけつまづいた、くらいのことだ。小さい石に爪突いても大きな石に爪突いても、転んで起き上がる苦労は大差ない。小さな石に爪突くなんてことは誰でも経験しているだろう。

苦労して耐えて乗り越えて成し遂げている当事者も確かにいる。それはそれは凄絶過ぎてフィクションとしか思えないような、現実離れした苦労を経験をして、乗り越えている人も決して少なくはない。でも、「みんな」じゃない。
でも大抵の人は、めずらしい(=自分とは異なる部分を多分に持った)人を見ると、いろんな意味で気の毒に思いたいのだ、ということも何となく判ってきた。誰かを気の毒に思うことで安心しようとしているのだ、と。その安心を邪魔する権利は自分にはないなと思うので、たいしたことではないことに「すごい」と言って貰うときも、たいした苦労をしてはいないけど「苦労されたのですね」と言って貰うときも、それを否定しない(肯定もしない)ことにしている。それが最近は面倒ではなくなってきた。

ということを、先日或るメディアの人に話したら、「ほかの当事者さんはそのような考え方ができてはいないようですが、その境地に辿り着くにはどのようにしたらいいと思いますか?」と、とても差し迫った口調で訊ねられてしまった。ぼくは「他人さまが思っていることなどをいちいち考慮に入れないで、自分本位にいることでしょうか」と、かなりいい加減でちょっと反道徳的なことを答えておいた。

あれ。
書き出しに書こうと思っていたこととは違うことに辿り着いてしまった。内容が一貫していないけど、今日この日に考えたこととして、これはこのままで置いておくことにする。
近頃、こういうことも必要かな、と思うんだ。未完成であることが完成型である、みたいなことを。


【今日の新商品】
チロルチョコレートの「黒ごまたると」、ぼくは好きだな。


エンピツユニオン


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