衛澤のどーでもよさげ。
2006年09月25日(月) 日記を読む。

インターネットを介して古書店で、矢野徹先生の「ウィザードリィ日記」を購入した。一九八七年だかその辺りに確か早川書房からハードカバー版が刊行されていて、一九九〇年頃にぼくはそれを購入して読んだ。後にこれが角川書店から文庫として刊行される。それが今回購入した本だ。
ぼくは一度読んだ本はずっと手許に置いておきたいのだが、金銭に困って泣く泣く換金してしまった本はかなりの数になる。「ウィザードリィ日記」もそういう本の一冊だった。

日本のパソコン文化黎明期にはじめてパソコンなる謎の機械にさわった還暦過ぎの老人、つまり矢野先生が如何にしてパソコンユーザになったかが、日記形式の平易な文章で書かれている。この本が書かれた当時のパソコンは現在のように「買って直ぐに誰もが簡単に使える便利な機械」ではなかった。OSの存在を常に意識して、何をするにもユーザが自分の手でキイボードからOSに対する命令文を英文字でいちいち入力してやらなければならなかった。
そんな面倒な機械だし、現在のパソコンに比べて著しく低機能の上に一台何十万円もする高価なものだったから、若者でさえパソコンを手許に置いて日常的に使おうなどと考える人はまだまだめずらしかった。
そんな時代に、還暦を過ぎた老人の矢野先生はまったく予備智識がないところからパソコンをはじめた。これは偉業である。きっかけはコンピュータゲームだった。

任天堂の「ファミリーコンピュータ」が家庭に普及しはじめた頃の話だから、コンピュータゲームがようやく家庭に入り込みはじめたところで、コンピュータゲームと言えばヒコーキで飛来する敵を撃ち落としたり、髭のおじさんを操って谷を越えたりブロックを壊したりと、反射神経が必要なものを大抵の人が思い浮かべていた。一方でとても狭いパソコンの世界では思考型ゲーム―――アドベンチャーゲームやロールプレイングゲームが大人気だった。この頃のパソコン界の大ヒット作が「ウィザードリィ」というダンジョンロールプレイングゲームだったのだ。

さて、「ウィザードリィ」がどのようなゲームで、矢野先生がこのゲームを通じてどんな風にパソコンに親しんでいったかはぜひ「ウィザードリィ日記」を通して愉しんで頂きたい。物語好きなら親しめるはずだ。
ぼくがこの本を再読して驚いたのは、遥か二〇年ほど以前の、科学技術の面では太古の昔と言えそうな時代の、一人の老人の身辺雑記のような本が、いま現在読んでも充分に愉しいものだということだ。いまでこそ「日記」を「自分ではない者」に読ませることを前提として誰もがいつでも読める場所に掲載しておくことはめずらしくなくなっているが、当時は目新しかった。それだからおもしろかったのかも、と思っていたが、どうもそうではなさそうだ。

自分ではない者がいつでも誰でも読める日記を、いまではぼくもこうして書いている。書きながら、「自分ではない者が読む」ことを前提として書くなら多くの人に興味を持って貰えそうな、或るいは興味を持って貰いたい事象を題材に取り、文中に挿入する情報はなるたけ最新の、正確な、精密なものを収集・選択し、物語を書くときと同じように構成に気を付けて、誰もが愉しめるものを書かなくてはならないのでは、と常に何時もという訳ではないが、考えていた。そうでなければ「おもしろい日記」にはならないし、それでは読みに通ってくださるみなさまに申し訳ない。と、考えていた。
しかし、日常の些末な事象を捉えて、これといった主張もなく、ただ「こういうことがありました」とだけ書いておいても、それはそれでおもしろい読みものになるのだということを、「ウィザードリィ日記」を再読することで確認できたように思う。

勿論、矢野先生の御著書はそういった記事ばかりではないのだが―――何だか書くときにいろいろ身構えすぎかなあ、おれ。なんてことをいま更思った次第だ。
古書店で安く購入したのだが思いのほかおもしろく読めた「ウィザードリィ日記」、気候が頃合いになってきたので読む本を探しているという方にはぜひ手に取って頂きたい。また、この本と似た時期、まだ「インターネット」というものがなくて電話回線で繋がれた「パソコン通信」が一部のパソコンユーザの間で行なわれていた頃、矢野先生が中心になって運営されていたフォーラムを一冊の本にまとめた「矢野徹の狂乱酒場」も、ネット黎明期の流行や思想が見えておもしろい。合わせてお読みになることをお勧めしたい。


【今日の確信】
日本のカレーは米の飯に合うようにつくられているんだなあ。


エンピツユニオン


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