先月三〇日に目蓋の手術を受けた。その術創の腫れも半分くらいには引いて、術日よりは目立たなくなってきたので、トレーニングジムに九日振りに行く。腫れもさりながら、何より縫合糸にこびりついた血が落ちてくれたのでスプラッタホラー風味が消えた。これだったら他人さまがいるところを徘徊しても大丈夫かな、と思った。
トレーニングは継続的に行なわないと却って身体がしんどい。だから中三日以上は空けないように気を付けていたのだが、医師から「術後は安静にするように」と釘を刺された。だから術後五日間は自粛したが、限界だ。これ以上じっとしていたら身体が動かなくなる。
ジムに行ってみて愕然。ウエイトの挙上可能重量の限界値が下がっている。
身体能力は毎日衰えていく。動かしてやらないと身体は動き方を忘れてしまうのだ。一五キログラムを持ち上げることができた筋肉も、暫く持ち上げるということをしない時期が続くと一五キログラムをどうやって持ち上げていたのかが判らなくなってしまう。頭は憶えていても筋肉は忘れる。
今年の前半はあまり調子が思わしくなく、トレーニングもさぼりがちだった。後半に入ってからは気持ちを切り替えて励もうと、少なくとも隔日ペースでジムに通って、ようやく鈍りがちだった筋力も上がってきて、同時に順調に体脂肪率も落ちて(≒筋量が増えて)いたのにまた逆戻りだ。がっかり。
ウエイトを扱う運動は衰えがはっきりと表れて疲労感も強かったが、有酸素運動は入院前よりも楽だった。持久力は身につくのも緩やかなペースだが、衰えるペースも緩やかなようだ。何もかもが衰えてしまったのではないことが判ってほっとする。息の上がり方もウエイトよりも有酸素運動の方がましだ。
ジムからの帰りに書店に立ち寄った。毎月読んでいる雑誌を手に取って、一ト通り平積みの本を見てまわる。これは早や二〇年以上続いている習慣。現在話題になっている本や新刊を確認する。
新井素子さんの「
扉を開けて」(集英社コバルト)が新装版になって表紙画が変わっているのを見つけて、「竹宮恵子さんの画じゃなくなったんだ」と、少し寂しく思う。そう言えば高校生だった頃に、一九八七年までに書かれた新井さんの小説は全部読んだな、と懐かしく思い出しながら帰宅。
そしてネット検索で調べてみて、竹宮恵子さんが表紙画を描いたのは「
星へ行く船」シリーズだけだったことを思い出した。コバルトの新井作品は全部竹宮さんが表紙画を描いていたと勘違いしていた。
思い出しはじめると記憶は芋蔓式に蘇ってくる。ぼくはセーラー服を毎日着ていた頃(こう書くと服装倒錯者みたいだ)、学食で昼食を食べるために親から貰っていたお金をすべて本代にしてしまい、昼休みは昼食を食べずにずっと本を読んでいた。当時は新井素子さんがとても好きで、昼食が化けた本はほとんどが新井作品だったのだけど、「星へ
行く船」シリーズが完結してしまって、それで気抜けしてしまったのか、それ以降新井作品はぷっつりと読まなくなってしまった。
丁度似た時期に本名だった「新井素子」という名は筆名になってしまった。その頃の新刊「
結婚物語」がテレビドラマになったっけね。新井作品が好きではなくなった訳ではないけれど、二〇年前の「読まねば!」と逸る気持ちはいまはないんだな。
【今日のちくそう】
淡泊な食事をしている我が家に狙ったように必ず何処からか流れてくる豪華な匂い。