衛澤のどーでもよさげ。
2006年03月20日(月) ヤなガキだったんだ。

一昨日から昨日に掛けて大阪某所に出向き、自分の現在と現在から振り返ってみる過去について御話する機会に出会った。ぼくの鬱病はGID(性同一性障害)が原因なのか別のところに原因があるのか、というような質問に答えるためだ。二箇所へ出向いて何れの場所でも同じ話題が出て同じ内容を御話させて頂いたのだが、こういう話を平気で笑ってできるほど現在の自分は落ち着いているのだなと自分でちょっと驚いた。

幼い頃のぼくは一ト言で言うなら「厭な子供」だった。
ぼくの幼い頃を話すためには、先ず父親がどういう人間だったかということを説明しておかなければならない。とにかく厭な人間だった。碌な人間じゃない。
ぼくは父親を「人間だ」と表すのが厭だった。かと言って「豚」だとか「鬼」だとか「悪魔」だとか表したら、豚や鬼や悪魔を辱めることになってしまう、とも思っていた。それくらい大嫌いだった。「憎んでいるか」と問われたら否と答えただろう。憎むどころか恨んでいた。

何故そんなにも嫌っていたかと言えば、とにかく危害を加えられるからだ。よく怒られた。叱られたのではなく怒られたのである。それも理不尽な怒られ方で、「悪いことをしたから」などのまともな理由で怒られたことは皆無だったと言い切ってもいい。ぼくが悪いことをしたからではなく、父親の機嫌がよいか悪いかで怒られるか否かが決まった。
父親の機嫌がよろしくないときにほんの僅かにでも父親の意に染まないことをすれば間違いなくその場で怒られる。たとえば、何か話しかけられたけれども巧く聞き取れずに「えっ?」と聞き返す、というようなことでも怒られる。その怒られ方も怒鳴られるだけでは済まないのだ。暴力が必ず伴う。
手近にあるものを何でも投げつけてくる。硝子の重い灰皿が空を切ってきたり、食卓がひっくり返ったりした。拳骨で殴られる。左右両方を使った乱打である。サッカーボールのように蹴り転がされる。腕や脚が内出血で真っ青になった。父親の怒りが治まるまでこれが続く。

当然痛いし、怖い。何故殴る蹴るされなければならないのかも判らないまま痛みと恐怖とに耐えなければならない。父親は「このガキ!」と怒鳴るだけで何が気に入らなかったのかを一切言わないからだ。どうして怒っているのかを怖る怖る訊ねると「何で判らないんだ」と言ってまた怒られる。
できるならこんなめに遭うことは避けたい。だからぼくは、四歳になる頃にはできるだけ父親の近くにはいないことを心掛けたり、何が父親の気に障るか判らないから可能な限り喋らないようにしていた。更にはそのようにしている自分を自覚している子供らしからぬ子供だった。

言いたいことがあっても言わない。意見を求められても「よく判らない」と茶を濁して自分の意見を明らかにしない。相手の顔色を見て「笑った方がいいかな」と察したときだけ笑いたくなくても笑い、それ以外はうれしいときも困ったときもつらいときも感情を外に出さない。「何かほしいものはない?」と訊かれたら「これがほしい」でも「ほしいものはない」でもなく「別に」と答える。望むことに当たっても避けたいことに当たっても常に「我慢する」ことを選択する。
こうやって実例を挙げるだけで「厭な子供だな」と思う。もしもいまのぼくが当時のぼくをそのまま見たのだとしてもやっぱり、子供らしくない厭な子供だと思うだろう。
更に言えば、この後ぼくは「他者に読まれることを前提にした」日記をつける習慣を身につけることになる。小学校三年生だか四年生辺りからだ。ますます厭な奴だ。
しかし、これがぼくの著述能力の向上に役に立ったのは間違いない。文章はただ書くだけでは上達しない。自分以外の誰かが読んでよく判るか否かを考えながら書かなければ幾ら書いても上手な文章を書けるようにはならない。

この父親も、ぼくが二度の精神科入院を経て迎えた三二歳の秋に他界した。四年前のことだ。七〇歳を越えていて、死因は肺癌だった。癌が発病した後の父親は少しだけおとなしくなり、流石に暴力を奮わなくなった。その頃になってようやく父親とぼくとは、間に母親がいるときに限ってだけれど少しずつ話すようになった。
それを通して判ったのだが、父親はぼくをかわいがって育ててきたつもりでいたらしい。或るとき、ぼくに向かってこんなことを言いやがった。
「俺はお前に怒ったことなんかないだろう」
「は?!」と甲高い声が頭の天辺から出そうになった。よくもぬけぬけと吐かしやがったなこのジジイ、と思った。

いまでは「厭な子供だったなあ」とか「うちの父親はこんなことを吐かしましてね」と笑って他人さまに話すこともできるのだけど、当時のぼくはほんとうにきゅうきゅうと見えない狭い筺の中に手足を折りたたんで押し込められているように苦しかったのだと思う。
「だと思う」と自分のことなのに推量なのは、当時のぼくは「苦しい」とか「つらい」とか思ったことがなかったからだ。幼い頃から長い時間その状態だったからそれが当たり前になっていた。「厭な子供であること」も当たり前のことで、だから「厭な子供だった」ことに最近まで気付かなかった。

で、最初に受けた質問に戻る。ぼくが二度に渡って長期入院しなければならなくなった鬱病は、GIDが原因なのかそれ以外のものが原因なのか。
そうでありそうでない、と言えるのではないか。ぼくはそうお答えした。GID当事者であるために感じた抑圧もあるのだろうし、しかしそれよりもぼくは父親からの抑圧の方を強く感じていた。そのために社会性に乏しい子供に育ち、更にそのせいで社会の中での生活をつらく感じてもいた。原因をただひとつの事象に特定することには無理がある。沢山の小さな原因が集まって大きな結果になったのだと考えるのが妥当ではないだろうか。
窮極突き詰めてしまえば、ぼくが患った原因は「ぼくが生まれてしまったこと」でしょう、とお答えした。ぼくがこの世にいなければぼくの苦しみもこの世になかったでしょうし、それならばぼくが鬱病になることもなかったでしょうし鬱病になったぼくもいなかったでしょう、と。

でも、それは、生まれて生きる間に苦しみがあるのは、ほかの人たちも同じでしょう、それなのに鬱病など精神の病に罹らない人もいますよ、と御質問なすった方は仰った。だから、ぼくはこうお答えした。
同じように生まれても、風邪をひきやすい人なかなかひかない人、虫歯になりやすい人ならない人、日焼けしやすい人焼けない人、いろいろいます。その沢山のいろいろな人の中の、ぼくはたまたま鬱病になりやすい人だったのでしょう。
そう答えると御質問くだすった方はようやく納得なすったようだった。

ついでに言えば、ぼくは鬱病になりやすい人に生まれたこともGID当事者として生まれたことも、決して損だとは思っていません、むしろ幸運だったとさえ言えます、と付け加えておいた。これは決して負け惜しみではない。
精神科への入院は鬱病にならなければきっとしなかっただろうし、性別適合手術もGIDでなければきっと受けなかった。これ等を実体験できたことをぼくは愉しく思っているしその分人生得していると思っている。矜るようなことではないとは思うけれど、負い目を感じたり恥じたりすることでは決してないと思っている。
だからぼくは精神障碍者であることもGID当事者であることも隠さない。わざわざ喧伝するようなこともしないけど。


【今日の判断能力低下】
船越英一郎さんか萩原流行さんか、一ト目では見分けられなくなってきたよ。


エンピツユニオン


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