衛澤のどーでもよさげ。
2006年02月01日(水) お腹一杯。

映画を観に行ってきました。今日は「ファースト・デイ」なので。
他所の街はどうなのか知りませんが、ぼくが住む街では毎月1日は映画の観賞料金が安くなります。1本1000円。観たい映画が複数あるし、こういうときでもないと街外れのシネマコンプレックスまで電車とバスを乗り継いで行くこともないので、えいやっという気持ちで行くことにしました。朝から雨でした。

観てきたのは「博士の愛した数式」と「THE有頂天ホテル」。午を挟んでこの順番で観たのですが、この順番で観てよかったです。
「近頃観ることができる映画」と「常々観たいと思っている映画」を観た、というのが観た直後の感想です。

「博士の愛した数式」。
映画を観ても、ドラマを見ても、漫画を読んでも、小説を読んでも、ぼくは先ず最初に「御話として」それを捉えようとするくせがあります。その視点からこの映画を観ると、「挿話の集まり」です。
勿論、御話というのは幾つもの挿話からかたちづくられるものでもあるのですが、この映画の場合は沢山の挿話が集まっているけれど、それ等は同じ人物が同じ設定で同じ舞台に出てきてその共通項は認識できるのだけど、その沢山がひとつの御話になりきっていない感じがしました。
観ていて愉しいのだけど、何かが足りない。絵や描写はとても上手なのだけど、御話を組み立てるのがあまり巧くない漫画を読むような。

そのもの足りなさは「原作を読んで補完しろ」ということなのかな、とエンドロールの最中にぼくは思いました。ぼくがここ1年ほどの間に観た映画というのは何れもそんな感じで、何か喰い足りない部分があって、原作があるものは原作を読まねば、という気になりました。今回この映画を観てもそう思ったので、近年、映画というものはそのようなものになってしまったのだと思ったのです。そのように思って観るなら、不満は残らないのだと思います。
でも、映画ってそういうものでもないのですよね。

「THE有頂天ホテル」。
観終わったときに「うわーお腹一杯!」とほんとうに両手でお腹を叩いてしまう、それくらいの満足感がきっと御覧になったどなたにもあるに違いない映画です。御話が緻密に組み立てられているのだけどその緻密さをまったく感じさせない、技巧と意匠が凝らされた構成にただただ感服です。
たとえて言うなら、長さが違う導火線が付いていて大きさもそれぞれ違う沢山の花火に時間差を付けて点火して、それ等花火が爆発していくさまを見ているよう。しかもその導火線は複雑にこんがらがっていて、どの花火が次に爆発するのか、いつ爆発するのかが予想できるようなできないような。予想したものが爆発したときは爽快だし、予想しないものが爆発すると吃驚できる。実に愉しい。
「御話を受け取る愉しさ」というものを久し振りに感じたように思います。

とにかく、考えなくていいのです。いつからか、御話を伴ったものはその御話について「いまの表現が意味するものは?」とか「この場面が言おうとしていることは?」などということを考えなければいけないものになってしまっていて、ぼくを含めたみんなは「御話を読む(紙媒体でなくても)とはそういうことだ」と思い込んでしまっていたのではないでしょうか。
この映画はそれをしなくても細部まで判るようにつくられているし、第一考える隙を与えてはくれません。では終始或る種の緊張を以て観ていなければならないものかと言えばそうではなく、一ト息つきたいときには一ト息つかせてくれて、盛り上がりたいときに盛り上がらせてくれます。見たいときに見たいものを見たいタイミングで見せてくれます。そういう意味で過不足のない映画でした。
エンドロールの最後に「End」の文字が出て、その瞬間に拍手をしたくてたまらなくなります。

贅沢を言えば、パンフレットにホテルの見取り図を載せてほしかった。載ってはいるのですが、とても小さい。
それから、パンフレットは変形版ではない方がよかった。本棚に収めにくいんだってば。

前半の憲二くん送別会の場面、大変な長まわしの上にカメラがぐるぐるまわっていてすごいですよ。


【今日の愉しい余録】
映画館のど真ん中の席でSTOMPのドルビー研究所トレーラーを観るのが好き。


エンピツユニオン


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