衛澤のどーでもよさげ。
2005年04月17日(日) 立ちすくむ。

「お前が書くものはひとりよがりに過ぎない」

そんなことは創作に当たって当然じゃないかという開き直りを持ちつつも、いつか誰かに或るいは誰かたちにそう言われることを私はいつもいつも怖れていて、その怖れが自分という器から溢れ出てしまうと今度は自分に突きつけられた或るいは突きつけられる可能性がある中傷とも真実とも判断しかねる言葉をその気もないのに気にし続けることになってしまい、ほんとうにやりたかったはずのこと―――書くことが怖ろしくなってしまって自ら遠ざけてしまう。

「自分で書く」ということを碌々しない輩が批評家ぶって得意げに言うことなんかそんなもの批判にはなり得ても批評ですらないのだし、実際に書く立場にあって「もし自分がこの立場なら」と考えられる人の意見でもなければまっとうな批評として真に受ける必要もないことは、頭の表面辺りでは判ってはいるつもりなのだけれど。

昨年なら多少のことは跳ね返す気力も体力もあったのだけれど、いまは精神の平衡を保とうとするのに精一杯の状態。そんなときにほんの些細な微かなものでも悪意に触れてしまうと精神的損失は大きい。
その結果、ほんとうにやりたいことをやること自体が怖ろしくてできずに自分というものを期せずして閉ざしてしまうことになる。

一ト言で済ませるとするなら「悪循環」。よくない巡りのときは自分自身も周囲のことも何もかもが巧く咬み合わず、その何もかもを「自分のせい」にしてしまう。
この状況から無理に這い出そうとすると自分に無理が掛かってしまって自分に降り掛かるさまざまなことに対応できないばかりか、そのさまざまなことがすべて何もかも自分に対する劇薬となってしまう。

こういうときはすべて「リセット」してしまうのが最も得策だと経験上知ってはいるけれど、それが身の周りに適切な人がいないがために不可能だとすると一体どうすればよいのだろう。
このままでは鬱症状がどんどん進行してしまう。二年ほど前と同じように、「死んでもいないが生きてもいない」という状態に、指一本動かすことすら自分の意志でも儘ならなくなってしまう。己れの知らずのうちに無理とも思わずに無理をしてしまう前に何とかしたいが、その「何とか」が具体的に見出せない。視野狭窄に陥ろうとしている。

この頁には基本的にどんな気分の悪いことが起きてもへこむことに見舞われても、できるだけ「どーでもよさげ」なことを書くように気を付けてきたけれど、それにも少しずつ少しずつ無理が掛かってきている。それも木の芽どき、季節柄持病柄のせいばかりではなさそうだ。

自分で自分がどうすればよいのかの判断が付かなくて頭の中で思考が堂々巡り。これはいわゆる錯乱状態。「錯乱している」ことが自分で判っているうちに何とかしたいのだが、いったいどうすればよいのだろう。
とにかく不安で、心細くて、自信の欠片も何処かへ失せてしまって怯えきってしまっている。

これまで心掛けてきたおバカ話を期待してこの頁にお越しくだすった方には大変申し訳ないのですが、ただいまこのような状況でどーでもよさげなことを書くことが難しくなっております。
誰かに相談したいけれど、同じく創作について一家言持っている人で且つ気持ちの余裕がありそうな人が相談相手に望ましいのだけれど、相談される相手の方にとって甚だ迷惑なのではないかと後込みしている有様。

こういうのって、心療内科医の仕事の範疇なのでしょうか?
ゴールデンウィークに入る前にもう一度受診という名の相談をしておいた方がよいのかな……。
とにかく今日は休診日なので対処方法としては「寝る」しかないと思い、いつもの通りに眠剤と精神安定剤を服んでみたが一向に眠れる様子がないので、いつもの3倍の眠剤と頓服の精神安定剤もやはり3倍ほど服んでいる。
そろそろ連続不眠三〇時間ほどになるのだが、眠くなる薬を重ねて服んでも眠くなる気配がない。新しい朝を迎えることを、眠ってしまうことを、精神面が頑なに拒んでいるのだろうか。少しも眠れないままに夜が明けてしまった。

「苦しい」
その一ト言を口に出すことすら億劫で気後れしてしまって息切れがする。

ぼくが書くものはそのときそのときで可能な限り最上のものに仕上げてきたのだけれど、ほんとうに水準に満たないのだろうか。素人以下のできに過ぎないのだろうか。
客観的・中庸の書き手の立場で批評、と行かなくとも御感想を建設的に頂けるととても有難く思います。たとえ酷評であったとしても、それが真摯な意見なら素直に受け容れることは、まだ、できそうだから。


【今日のへたれ】
こんなことを深夜から夜が明けきる早朝までうじうじ考えていた私がへたれそのものです……。


エンピツユニオン


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