2005年01月05日(水) 本能。
■生殖の本能
ヒトが「いい恰好」をしようとするのは生殖の本能による。
できるだけ「スタイルよく」「うつくしく」「御洒落に」等々、見目よくなろうとするのは、その見目で沢山の異性を引きつけ、その沢山の中から生殖の相手、つまり自分の遺伝子を有効に後世に遺すために「遺伝子の」相性がよい相手を見つけるためだ。
「遺伝子の相性がよい相手」は必ずしもひとつの個体ではない。「遺伝子の相性がよい」即ち「生殖の」相手は複数の方がより効率はよい。
だから可能な限り「いい恰好」をする、というのは「本能」の働きによる。「ええかっこしい」と蔑まれる所以はない。「いい恰好」には身体のかたち以外にも、着るもの、飾るもの、化粧、財産等々も含まれる。とにかく異性を引きつけないといけないんである。
■生存の本能
「自分が」生き残るためには喰わなくてはならない。食糧が少なくてもできるだけ長く生きるために、ヒトのみならず生きものはカロリーが高いものを択ぶようにできている。「甘い」ものや「脂っこい」ものを「美味」に感ずるのは嗜好ではなく、可能な限り多いカロリーを摂取して長く生きながらえるための「本能」である。
「沢山喰う」のも「甘いものを好む」のも決して「食い意地が張っている」からではなく、これ等は「本能が強い」ためだ。食糧に乏しく毎日安定して食べものにありつけるようになったのはこの100年ほどのこと。それ以前の人類の歴史数百万年もの間に「可能なときに可能なだけのカロリーを摂取しておく」ことは遺伝子が憶え込んでしまっているのだ。
「苦い」ものを嫌うのも「毒」を喰って死んでしまわないための本能である。毒は苦いんである。
……と、こうしてみると、あまり着飾りたくない、外見にこだわらないぼくは同じ本能の部分でも「生殖の」本能が弱くて、喰うことのための労力をあまり惜しまず甘いもの好きのぼくは「生存の」本能が強い、と言える。
つまり、自分の「遺伝子を遺す」ことよりも「自分自身が長く生きる」ことを遺伝子レベルで優先しているんだな。「遺伝子を遺す」ことに意識を向けるだけの余裕がないとも考えられる。
何れにせよ、この遺伝子レベルの本能の強弱は思想にも影響しているようだ。
ぼくは自分を飾り立てるのが嫌いだし子供も好きでない。あまり恋だとか愛だとか興味がないし特に「愛」なんて言葉には嫌悪すら感じる。まともに生殖して子孫を残せる状態にあったとしてもおそらく「子供を残したい」とは思わないだろう。
一方、「自衛の手段」だとか「自分が生き残る術」には、およそほかの人よりも強い興味を持っているのではないだろうかと自分でも思う。格闘術や武器に興味を持って好んで智識を得ようとするのもそういう本能のためなのかもしれない、とも思う。
アミノ酸の塩基配列に潜むごくごく小さな世界のできごとにこんなに自分が左右されているのかと考えると、生きているのがちょっと厭になる。「もの思う」ことも蛋白質のかたまりの中で電気信号が点いたり消えたりしているだけのことだしね。
「生きる」って案外味気ないな、とこういう智識に触れるたびに思う。
(そんなことを思っている暇があったら仕事を進めたいのに進まないのも厭だな)