2003年11月07日(金)
究極の舞台〜二分法のあいだ

二つの舞台がある。

1)あたかも現実がそこにあるかのような舞台。いわゆるスタニスラフスキー・メソッドの実現だ。映画やTVドラマでは今でも重要な表現様式だ。

それに対して

2)能の象徴主義(それを多様化した形では歌舞伎、人物より、すがたを重んじた形では舞踊)。

私が追求めている舞台はそのどちらでもない。現実に似せようとした瞬間に舞台は現実に隷属する。象徴を重んじた瞬間に現実は消え去る。舞台という超-現実の境界をそのままにして、その上に、あるいは、その中に、現実を、複製としてではなく新しい現実として生み出せないか?冬の水琴窟はその実験だった。白塗りの顔は単に顔を白く塗ったものではなく、顔の地肌を縁取りとして残し、その上に白い仮面を乗せたものだ。顔は素面であり、同時に、仮面となる。

これを演戯様式にも適用できれば素晴しいのだが。現実からわずかにずれた場所できらめく声と体の星雲。口で言うのはたやすいがいざ稽古場で演戯をはじめたとたんに、何ものかに絡め取られる。泣くからにはもっと見るものがつり込まれるような泣き方であって欲しい。叫ぶからには魂を揺り動かす叫びであって欲しい。

こうした欲求の底にあるのは多くの場合、やはり現実の力だ。現実らしさが私たちを突き動かす。しかし、それでは結局現実の複製を求めていることになる。舞台は複製であってはならない。

だから現実らしいすがたが舞台に(役者の身体に)現れた瞬間に、それを壊す運動が必要となる。全く出さないのではない。出した瞬間に消える、明滅の演出。理想的には出すことが、消えることにつながるようなパラドックス。

要するに、現実を取出す手つきを見せてしまうという超-現実、現実さえもが、舞台の領域にあるという舞台の託宣。しかし、その手つきは誰のものか?登場人物のもの?役者のもの?演出家のもの?それとも……?

まだまだ漂流の旅はつづく。


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