財布が行方不明だ。身の回りのことに頭がお留守なので、財布は自由気ままに移動する。たしかに昨日(いや、もう日が変わっているので、一昨日)ガソリンスタンドでカードを使ったから、その時点までは持っていた。その後、家から持って出た記憶がない。しかし、家にもない。困った。おーい、かくれんばは終わったぞ。出ておいで。良寛さんに、しないでおくれ!
8時間後、財布は洗面所のかたすみに隠れているところを発見され、この騒動にけりがついた。やれやれ。
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かつて北海道を舞台とした美しいテレビドラマに出演して、私たちを感動させた女優が先日のサスペンスドラマに出ていた。驚いた。この感情を率直に語ることはいろいろな意味で難しい。ほとんど別人になっていた。ドラマがあまりに凡庸だったので見るのを途中でやめたが、見るに忍びなかったというのもある。
原節子という女優は自分を作品として生きた。女優として円熟の頂点にありながら、「原節子」を汚したくないと、突如、引退して、二度と公に姿を現すことはなかった。
いまはそういう潔さを期待することは無理なのだろうか?というよりこの潔さの意味そのものが理解されないかも知れない。
呂律の回らなくなった役者が平然とドラマに出演している。下手を絵に描いたような人間が親の七光でTV最多出演記録を持っているという。この業界には私たちとは別種の常識や美意識が住着くようになっているのだろうか?
とはいえ、現代は老いの時代である。老残などということばはもう死語だろう。だから、からださえ動けば、役者は役者として通用するという考えが制作側にも出演者側にもあっても不思議はない。
しかし、老いてなお、はつらつと我が道を生きるということと、かつての栄光にすがるということは別なことではないか?役者は舞台を汚してはいけないのではないか?役者は芸の限界を知るべきではないのか?
かつて、スイスロマンド管弦楽団にエルネスト・アンセルメという指揮者がいた。最晩年日本にも演奏旅行にやってきた。彼は指揮台まで歩くのもやっとだった。よぼよぼの老人と言ってもいいくらいだった。しかし、指揮をはじめたとたんまったくの別人になった。背筋はしゃきっとして、眼には輝きが見えた。楽団員の信頼も厚かった。老残はそこになかった。彼には音楽が生きていたし、音楽を生かしていた!
しかし、役者にとって、表情をかたちづくる筋肉、ことばをあやつる舌の動きは芸の要である、いのちである。あの女優にはもはや演技のよろこびは生きていなかったし、演技を生かしてもいなかった。あの画面にあったのはやはり老残だけだった。
それでもなお(おそらく本人も自分がもう役者として通用しないと知っているだろう)TVに出演しているということに無惨なものを感じ、画面には現実の苦い味がしみ出して、ドラマはそこになかった。
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