さきほど、坪内逍遙に関する悪意に満ちた本、津野海太郎「滑稽な巨人〜坪内逍遙の夢」を読み終わる。
自分を坪内に対して「好意の眼鏡」をかけた人間といいながら、この本に展開される坪内像の創造(再創造)には決して好意の感触は感じられず、ただひたすらに大人びた態度で逍遙を小馬鹿にする姿勢を貫いている。そもそもこの津野という人間は漢字はいずれ消えて無くなると本気で考えるような、人間の精神世界のなんたるかを理解しない(あるいは理解していると勘違いした)コンピュータおたくにすぎないのだから、いちいち目くじら立てて論評する必要はないのだが、このような人間愛の片鱗もない書物に「〜の夢」などというふざけた名称を与える出版社に腹が立って、書いている。
人間は失敗しながら生きている。そういうものだ。その失敗をあげつらって、ほら、そんな精神構造だからそういう失敗をしたんですよ、といった感想は個人の内部や狭い共同体の内部で漏らすのはいっこうに問題はないが、そもそも本を出版するということの意味を考える時、伝記を隠れ蓑にした個人の名誉毀損がゆるされるはずがない。しかも、著者はその点は十二分に承知していてこの一線を越えることはない。だが、その代わりに採用した作戦は、もっと品のないものだった。つまり、「好意の眼鏡」を掛けたフリをしながら、徹底的に茶化すのだ。冷淡に、限りなく冷淡に。しかし、本人はそれを「冷静に」と思いこんでいるかもしれない。とにかく、文体が冷たいのだ。
ここまで書いて、ふと思ったことがある。そういえばふと思ったことがある。コンピュータというメディアはそういう冷たい人間を作り出すようだ。私もそのひとりかも知れない。何故か私の知っている情報技術のエクスパートは冷たいひとが多い。そういうひとに質問する時はよーく考えてからにしなければいけない。不用意な質問などしようものなら(もちろん、質問というのは不用意なものなのだが)、なに、そんなことも分らないでパソコンいじってるの、ふん、という顔を露骨にされる。それで大体はめげて、パソコンの不具合を我慢する方がましか、とあきらめるのだ。
もちろん、そんなひとばかりではない。この日記のサービスをしているshiromukuさんは質問すれば、その日のうちに丁寧な返事をくれる。だからコンピュータが非人間を作り出しているわけではないのだが、そういう傾向は否めない気がする。
津野という人間は演劇を理解しない。世界劇場などという考えは知りもしないだろう。だから、坪内がシェイクスピアから学び取ったと思われる演じることの大いなるうねりも、津野の手にかかるとただ滑稽な大立ち回りに変わる。ひどいものだ。そして、滑稽なことを強調したいあまり、シェイクスピア全集全訳の偉大な業績についてはほとんど触れない。触れても彼独特の文体をからかう時だけだ。
こういうのは本当に我慢ならん!
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