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S界救S教の幹部の集合写真が、1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)の間に撮られており、彼らは東京のS界救S教の博愛教会の信者たちであった。
「1」岡田仲道(良一)氏、「2」A氏、「3」A氏、「4」S氏、「5」H女史 (プライバシー保護のため、岡田氏以外にはぼかしをかけています。)
真ん中の写真は、上の集合写真中の「1」の人物の拡大写真。
上の写真を見れば、耳の形から明らかである。岡田良一氏を撮ったこれら3枚の写真は、違う年齢の時の写真だが、明らかにS界救S教の集合写真の中の人物が岡田氏であることを示している。
上の情報が明らかとなったとき、日本の真光の秘書官に、教義の中のこの明白な矛盾について説明を求めた。秘書官からの回答は、岡田氏のS界救S教への関与を全面否定するものであった。岡田恵珠女史は、秘書課長であるK.T.氏を通して(下のK.T.氏からの手紙、参照)、岡田氏が10年ほどの間S界救S教の幹部であった事実を否定したが、なぜ否定するのであろうか?
以上の証拠から明らかなように、岡田氏がブッダの予言、「正しい教えを説く者が、私の死後3000年の後、在家の中から現れる」、のなかのその人であるという真光のはかない主張は崩れ去った。明らかに、岡田氏は在家(宗教の素人)ではないのである。
(注:「在家」とは、ブッダの弟子以外、すなわち仏教徒以外のことである、という解釈もあります。しかしながら、真光では(初級)研修において、「在家」とは宗教の素人という意味であり、岡田光玉氏はその素人であった、だから岡田氏はブッダの予言した救世主だ、と教えています。つまり、「在家」という言葉の正確な意味はともかく、明らかに真光(岡田氏)は自分の理解した「ブッダの予言」に沿うよう岡田氏の過去を隠蔽し、岡田氏を救世主にしたてあげようとしています。) 1959年(昭和34年)2月27日には、ユニークな新しい宗教が生まれたのではなく、岡田氏の色々な過去の経験が、試され証明されてきたカルトのテクニックの中に織り込まれ、一つの宗教運動が形成されたのである。それは、シャーマニズムとオカルト的実践に深く影響されていた。しかしながら、どのように複雑化しようとも、真光のあやふやな基礎は消し去ることができない。
真光とS界救S教の教えを比較すると、岡田氏はその基本的な教えの構築に当たっては、S界救S教と神道の実践に依存していることは明らかである。証拠が必要なところでそれを与えることに岡田氏は非常にうまく成功した。つまり、日本の伝統的な宗教である神道という、強力な支持者を得ているように見せたに違いない。不幸にも真光に魅了された人々の経験を聞くと、非常にたくさんの人々の人生が、岡田氏の「成功」によって破壊させられたことがわかるのである。(注:この段落は、あまり英語に忠実ではなく、かなり意訳してます。)
岡田氏が打ち立てた彼自身の霊的帝国の基礎は、このようにして非常に不安定なものとなった。
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