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1975年05月28日(水) a

岡田氏が1959年(昭和34年)(※)に彼自身の教団を設立する以前に、彼は10年ほどの間宗教家だったことを知ることは、真光の信者に大きなショックをもたらした。中心的支柱が崩れはじめ、すべての領域において岡田氏の信頼性に疑問が投げかけられた。彼は、ブッダの予言にあるような素人ではありえず、そしてそのことが真光に関する基本的なことがらをも信じられなくさせてしまうのである。


(※)原文では1957年となっているが1959年の間違いではないかと思われる。
1993年に○○真光によって発行された「大聖主」(Ketaro Shibata著)によれば、岡田氏は40才代の初めに胸部脊椎カリエスと呼ばれる状態のために深刻な健康問題を抱えており、また、慢性的な消化不良とストレスによる神経衰弱に苦しんでいたという。彼は、九州大学の外科の長であるNakamura?医師に、あと3年の命と宣告されたという。

彼の日記にはこう書かれている。「私は、骨(背骨?)が3年のうちにだめになると言われました。しかし、医者の言うこととは程遠く、病院へ再び検査に行ったときには、すべてが自然に治癒していることがわかったのです。」 彼の伝記には、彼が長い間「浄霊組織」とか「S界救S教」と呼ばれる日本の教団に属していたことが、全く述べられていない。1950年代の岡田氏を知る、S界救S教の幹部であるT氏(尊師)によれば、岡田氏は、そのカリエスをS界救S教における実践、つまり手から放射されるエネルギーによって癒したという。岡田氏は、T氏(尊師)が信者の一人であったS界救S教の教会の幹部だったという。

T氏の供述を裏付けることが、S界救S教の教義部(?)にいるもう一人の幹部であるA氏から得られている。彼は岡田氏を知っており、1949年(昭和24年)ごろ岡田氏と一緒にS界救S教の幹部たちとともに写真を撮ったという。また、岡田氏のような人は聖人と呼べるかもしれない、と言って面白がっていた。S界救S教の幹部たちは、他の宗教を批判することを禁じられているという。しかし、岡田氏が救世教の信者であったという事実は変えようがない。

岡田氏は、1947年(昭和22年)ごろ名古屋地方でS界救S教に入信し、熱心な信者となった。1949年(昭和24年)、彼は東京の西荻窪にある分派教会の博愛教会に割り当てられた専従の(給与も支払われる)幹部となった。A氏は、一年間西荻窪で、岡田氏を補佐する幹部であった。岡田氏は、岡田仲道(Chudo)として知られていたが、後に自分自身を光玉先生と呼ばせ始めた。(※)写真の中にいるH女史は、岡田氏の上司であった。岡田氏はたびたび、S界救S教の創始者であり明主(盟主)様と呼ばれる岡田茂吉氏の教えについて、いくつかの部分において違う見解を述べるようになっていった。(岡田良一氏と岡田茂吉氏は、同じ岡田姓だが縁戚関係は無い)


(※ 「光玉」という名前は、「御聖言」によれば1959年(昭和34年)2月27日に神示によって神から授けられた名前のはずであるが、それ以前に使われていたらしい。「御聖言」自体の信憑性が疑われる。)
岡田氏はたびたび、彼の霊への興味を注意され、将来問題を起こすだろうと警告されていた。1953年(昭和28年)に、彼は問題行動(性的不品行)よってS界救S教の幹部を罷免された。1957年(昭和32年)までは、S界救S教に所属して密接な関係を保っていたが。この頃、彼は妻と離婚している。S界救S教の熱心な信者であり、岡田氏に付き従ってS界救S教を去ったある一つのファミリーに所属し、後に岡田氏の養女となった、井上甲子という若い女性は、後に○○真光の指導者である岡田恵珠女史として知られるようになった。現在彼女は70歳に達しようとしている。

(注:井上甲子女史の素性については、「新興宗教の正体」という書物に記述がある。)
(注:額の手かざしの前に祈言を奏上すると浮霊しやすくなる、ということは救世教内で知られ、禁じられていたようです。そのことや霊査などに興味を持って続けたのが岡田光玉氏と言われています。結果として、これが罷免の一つの理由となりました。)

(注) 岡田光玉氏の罷免事件に関する証言(2ちゃんねる http://www.2ch.net/ −心と宗教−真光関係者集合!!(8)−547、548 2002年8月8日)
「私は救世教関係の者ですが、岡田光玉氏の救世教時代について私が直接、間接的に関係者から聞いて知ったことをここでまとめてお伝えしておきたいと思います。岡田光玉氏が性的な問題を起こして救世教を破門されたという事に関して、これはおおよそ正しく、一部誤解があるようです。

世界救世教の浄霊では、始めは治療的に触診などをしていたのですが、昭和25年頃から体に手を触れないことが原則の浄霊に変わりました(昭和25年12月27日 「浄霊法変わる」) ところが岡田光玉氏は、手を触れない浄霊法の時代になった昭和二十八年のある日の浄霊中に、意図してか誤ってか、相手の女性の体に触ってしまったということがあったらしく、女性が悲鳴をあげ、布教所が騒然となったそうです。このトラブルと、それまでの浄霊中の霊的現象に非常に興味を持っていたことをあわせ、岡田氏はこの時点で、専従布教者を解雇された、すなわちクビになったということらしいのです。破門をされたのではなく、解雇されたのです。

だが、単に教団からの雇用を解かれただけで信者をやめさせられたわけではないので、岡田氏はしばらく一般信者として参拝などを続けていたようです。というのは、教祖が亡くなったのが昭和30年で、その後二代教主様が就任されましたが、昭和32年頃まで、岡田光玉氏が聖地参拝に来て二代様のご講話を聞いていたという目撃証言があるからです。私は真光の教義を詳しく知っているわけではありませんが、時々掲示板に掲載される用語などを見ると、教祖の影響とは別に、救世教二代教主様の影響があることもうかがえます。岡田氏は、霊がかりに興味を持ったことと、そして女性の体に触ってしまったことで解雇されたことから、霊と自由に話をすることが出来、相手の体を触れることが出来る真光をおこしたのでしょう。

(追記)世界救世教には、腎臓部分や肩、首などを触られても悲鳴を上げるような文化があるわけではありません。これは当然、女性が悲鳴を上げるような場所を光玉氏が触ったという意味です。」




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