長岡輝子の朗読による、「セロ弾きのゴーシュ」は、秀逸である。 賢治の故郷の言葉である東北弁の語り口が、物語と声を一体的なものにし、自分で読むよりもはるかに、この名作のデティールを味わうことができる。
そうした理由で、改めて思うところを記す。
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セロ弾きのゴーシュは、弱者救済の物語だ。 それも、弱い者が、自分よりもさらに弱い者を助けることによって、 生きる力を得ていく物語だ。
村はずれのこわれかけた水車小屋に、ゴーシュはたった一人で住んでいる。 そして、町の活動写真館の楽団、金星音楽団で、チェロを弾く係をしている。
ゴーシュの弾くチェロには、およそ表情というものが無い。 チェロもずいぶん古びていて、弦もいささかいかれている。
そうだから、楽団の演奏の足を引っ張って、練習の時には、楽長にこっぴどく叱られ、嫌味を言われる。
町の中には他に素人の楽団があり、自分の楽団が彼らの演奏と同じような評価を得ることは我慢ならないという楽長にとって、彼は厄介者なのだ。
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孤独なゴーシュは、心がささくれ立っている。 夜更けにひとり、水車小屋でチェロを弾く。
そこへまぬけで慇懃無礼な猫がやってくる。 ゴーシュの畑のトマトを引っこ抜いて、土産ですと言い、 聴いてやるからトロイメライを引いてみろ、という。
ゴーシュのささくれだった心は、このまぬけで無礼な猫に腹を立て、 腹いせに意地悪をする。
インドの虎狩りという曲を大音響で弾き、猫の下でマッチを擦り、 猫は、舌を風車のようにぐるぐるまわして、ほうほうの体で出ていく。
ささくれ立った心を目の前で再確認したような後味の悪さのまま、彼は眠りに就く。
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翌日の夜は、カッコーがやってくる。 この辺りから、物語はチェロのレッスンの様相を帯びてくる。 ただしそれは、主人公のゴーシュにはわからないほど、優しく密やかに、であるが。
ゴーシュの奏でるカッコーのメロディを、そういう風ではないと指摘し、 一万回弾けば一万回違うカッコーになるのだ、と説く。
初めはただ鳴くだけじゃないかと馬鹿にして笑っていたゴーシュも、 カッコーに乞われて繰り返し繰り返し弾くうちに、これはカッコーの言っていることの方が本当かもしれない、と思うようになる。
楽長から、およそ表情というものがない、と酷評されたゴーシュのメロディに、風がふきはじめたのだ。
けれども結局しまいには、もう一回、もう一回としつこく頼むカッコーに、ゴーシュはうるさい、鳥め!と激怒し、カッコーはガラス窓にひどく体をぶつけ、血まみれになって逃げ帰って行く。
猫や鳥は、ゴーシュよりも弱い立場なのだ。 ゴーシュを怒らせれば、ひどい目に会う。
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自分より弱い者との関わりを通じて少しずつ心がほぐれてきたゴーシュは、次の夜には、来訪者を待つようになる。
もっとも、今度は相手にせず初めから追い払ってやろうという腹であるが。
今度の来訪者である子だぬきは、何と、ゴーシュさんはいい人だという。 「お父さんが、ゴーシュさんはいい人だから行って習えって言ったよ」、と。
楽団で厄介者扱いされ、水車小屋にたった一人で暮らす孤独なゴーシュは、いい人だ、と言われるのである。
ようしやってやろうじゃないか、とゴーシュは子だぬきに乞われるまま、太鼓の練習に付き合うのである。
ここで再び、チェロのレッスンである。 ゴーシュは小さい子だぬきから自分のテンポの足りないところを愛嬌たっぷりに指摘される。
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おしまいの来訪者は、ねずみの親子である。
二匹の用向きといえば、聴いてやるから弾いてみろと言うのでもなく、レッスンをつけてくれというのでもなく、病を治してくれ、というものだ。
ゴーシュのチェロを聴いた動物達は、身体の不調が治るのだという評判をきいて、訪れたというわけである。
母親ねずみはゴーシュをセンセイ、と呼び、子ねずみの病を治してくれるように懇願する。
自分の音楽には−自分には−、他の弱者を救う力がある。 そのことが、ゴーシュにチェロを弾く−生きる−希望をもたらす。
治してやるぞ、弾いてやるぞと、ゴーシュは子ねずみをチェロの中に入れてやり、子ねずみを治すために一生懸命、祈りを込めて弾くのである。
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かくして、ゴーシュのチェロは表情とテンポと祈りを得て、 コンサートでは聴衆や、ゴーシュを厄介者扱いしていた楽団員達をうならせることになる。
孤独でささくれ立った存在から、他者と不器用な関わりをもつことへ、 さらには他者を救い、役に立つ喜びに至るゴーシュの心の成長は、 自分より弱いものとともにある。
この物語には、ゴーシュの音楽的な技術向上と一体的に、そのことが美しく描かれている。
2007年08月01日(水) 左の意味 2006年08月01日(火) 2005年08月01日(月) 情報公開 2004年08月01日(日) 水難事故多発
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