古いつきあいの会合に、家族で出席。 ヒマラヤの話をしてくれと頼まれて、Hはスライド上映会を引き受けたのである。
ヒマラヤ高所登山の映像やエピソードは、結構な驚きをもって受け入れられた。 その驚きを見て、私やAはこうした世界に-一歩も足を踏み入れていないにも関わらず-、随分と慣れてしまっているのだなと思う。
終了後なぜか、大変面倒なことに、亭主がこんな危険な場所に行くことについてどう思っているのか?ということに関心が注がれてしまった。 中年男性がこぞって、浪花節の回答を私に期待している。
こういう場面は、苦手である。
「愚問だね」という答えを呑み込んだまま、家に帰り、夜更けにその理由を考える。
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「あなたは何故、伴侶のそうした生き様に理解を示せるのですか」と言う問いは、連れ合いを持つ者全てに、等しく価値のある質問である。
それは、大企業の部長であれ、大学教授であれ、専業主婦であれ、 人が人生に向き合う態度には、何らかの色や輝きがついているからだ。
そうだから、パートナーである夫婦お互いがそれを認め合い、高めあうことについて、 他人に美談を求める熱意があれば、それを自分のパートナーへの思いやりに向けてほしいと思うのである。
もう一つ。 問いかけというのは、安易な気持ちでしてよいものと、そうでないものがあると思う。 「ダンナは死にそうなスリルがやめられないんでしょ」などと不躾に決め付けてくる男性などには、むしろこちらが、その奥方に問いたいぐらいである。 「あなたは何故、伴侶のそうした生き様に理解を示せるのですか」、と。
2006年08月08日(火)
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