2009年04月15日(水) |
time goes by |
Aは時計の読み方を学び始めた。 難しいところですから時計を見せるなどして家庭でもご協力を、 と、教員からの通達に書いてある。
そういう目でAをウォッチングしていて、発見した。 未だこの人には、時間の観念が十分に育っていないのである。
正確にいうと、時は刻々と過ぎていくものだ、という感覚が育っていない。 日単位、午前、午後、夜、ぐらいの、まことにプリミティブな刻みで生きている。 そもそも子どもの暮らしというのは、それぐらいで支障ないぐらいがよい、という気もする。
*
時を教え、寝た子を起こすべき時なのか。 そもそも時が過ぎるのを、どの単位でもって暮らしに導入すればよいのか。 人の一生か?それともコンマ一秒の世界か?
哲学者みたいなことを考えすぎて、自分が混乱した。
*
結局のところ、親離れしていない子どもには、何事も寄り添って教えるほかないという結論でよいことにした。
時間の観念も、夕飯の準備をする、風呂の準備をする、散歩に行く、布団に入る、 そうした毎日の繰り返しについて、時間の目安を共有できれば十分だろう。
*
時計を正確に読めるようにならなければいけません、という何の哲学もない学校の姿勢が、私には「人に機械のように使われる人生を呑み込め」と言っている様に感じられ、少々焦ったのである。
もちろんそれは妄想にすぎず、教育現場がそのような意図をもつわけはない。
けれども、ミヒャエルエンデが名著「モモ」で警告したような、 自分の時間を奪われた人の生き様は、現実社会のもうほとんどであり、 それはやはり、時のインプリンティングに人間的な視点が欠けていたのだと思う。
*
Aはどうしたら、時間を−人生を−自分のものにできるだろうか。 親心からの願いは、その一つなのである。 時計の針を多少読み違えたって、そんなことはどうでもよいのだ。
2007年04月15日(日) 2006年04月15日(土)
|