過去を記録するという行為は、人間だけがするのである。
記録、すなわち情報の格納は、人類の発見である。 ヘロドトスが歴史を綴った時から、司馬遷が史記を記した瞬間から、 世界は世界として、国家は国家として成立した。
子どもは過去を記録しない。 子どもにあるのは、現在という瞬間だけである。 でもしかし、それの何と正直なことか。
*
過去を語るということは、現在を語ることである。 そこで他者に伝えられることは、自分がどんなふうに在りし日を切り取り、 否認、願望、強調のフィルターをかけて編集したかという、 今日の自分の心の在り様だけである。
*
だから、私は人が昔語りをする時、そういうつもりで耳を傾けるのである。 それはそれで味わいがあるし、よく理解したいと思う人であれば、その助けになる。
でも、私はできればもうあまり、人前で昔の話をするのはやめようと思っている。 何故かというと、「現在だけが全て」という子どもの感覚を、 もう一度取り戻してみたいと思ったからである。
2006年07月01日(土) 人を殺せと教えしや 2005年07月01日(金) シャコンヌ 2004年07月01日(木)
|