浅間日記

2005年11月25日(金) 欠乏苦・飽和苦

本日は上京。

寒い寒い。
自分に生えている夏毛はもうすっかりぬけて、
厳しい寒さを受け入れた真っ白な冬毛に生え変わったので、
それでも年明けぐらいまでは耐えられそうだけど。



娑婆へ出るのは一月ぶりだ。
生暖かくて生臭い新宿駅の雑踏は、あらゆるもので飽和して、
人や物や時間やエネルギーが消化不良を起こしている。

それは都会には当然の情景と諒解していたはずなのに、
どういうわけか今日の自分は、そこのところに因縁をつけている。

欠乏と同じぐらい飽和も、人間の抱える苦しみだ。
空気の入らない風船も、入れすぎて破裂してしまった風船も、
どちらもそのあるべき幸せな姿ではない。
でもしかし、欠乏の苦しみは理解されやすく、飽和の苦しみは理解されにくい。


スポットライトの当たっている、絵札のような不幸の下に立つことだけが、苦を救うということでもないだろうから、これはもう許してもらうしかないのであるが、

自分にとって、どちらの苦しみに寄り添うのが自然かといえば、多分それは「飽和苦組」なのである。

つまり、例えば、曽野綾子氏の言うような「今日食べるものがない」という貧困下にいる子ども達よりも、
工業製品みたいな食べ物を家畜のように与えられ続け、一時も空腹感を感じたことのない子ども達に対して、
自分にできる救いはないのかと真剣に考えてしまうのである。

そして、「ゆっくりでいいから、そのパンパンの空気を抜いてご覧」、
というようなことは、自分でも言えるのではないかと思うのである。



誰もスポットライトをあてていない不幸がある。
一見、そこには何も深刻なことはおきていないように見えるし、
自分でも何がおきているのか分からない。

そんな理解されない混沌とした孤独に寄り添って、
「それはもしかすると苦しみなんじゃないかな」と示唆するような、
そんなことを、私は「苦を救う」と考えているみたいである。
上手く表現できないし、実際にやったこともないけれど、そう思う。

2004年11月25日(木) 相互承認の時代


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