本日は上京。
寒い寒い。 自分に生えている夏毛はもうすっかりぬけて、 厳しい寒さを受け入れた真っ白な冬毛に生え変わったので、 それでも年明けぐらいまでは耐えられそうだけど。
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娑婆へ出るのは一月ぶりだ。 生暖かくて生臭い新宿駅の雑踏は、あらゆるもので飽和して、 人や物や時間やエネルギーが消化不良を起こしている。
それは都会には当然の情景と諒解していたはずなのに、 どういうわけか今日の自分は、そこのところに因縁をつけている。
欠乏と同じぐらい飽和も、人間の抱える苦しみだ。 空気の入らない風船も、入れすぎて破裂してしまった風船も、 どちらもそのあるべき幸せな姿ではない。 でもしかし、欠乏の苦しみは理解されやすく、飽和の苦しみは理解されにくい。
* スポットライトの当たっている、絵札のような不幸の下に立つことだけが、苦を救うということでもないだろうから、これはもう許してもらうしかないのであるが、
自分にとって、どちらの苦しみに寄り添うのが自然かといえば、多分それは「飽和苦組」なのである。
つまり、例えば、曽野綾子氏の言うような「今日食べるものがない」という貧困下にいる子ども達よりも、 工業製品みたいな食べ物を家畜のように与えられ続け、一時も空腹感を感じたことのない子ども達に対して、 自分にできる救いはないのかと真剣に考えてしまうのである。
そして、「ゆっくりでいいから、そのパンパンの空気を抜いてご覧」、 というようなことは、自分でも言えるのではないかと思うのである。
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誰もスポットライトをあてていない不幸がある。 一見、そこには何も深刻なことはおきていないように見えるし、 自分でも何がおきているのか分からない。
そんな理解されない混沌とした孤独に寄り添って、 「それはもしかすると苦しみなんじゃないかな」と示唆するような、 そんなことを、私は「苦を救う」と考えているみたいである。 上手く表現できないし、実際にやったこともないけれど、そう思う。
2004年11月25日(木) 相互承認の時代
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