浅間日記

2005年11月11日(金) 他人の死を引き受ける

T住職とN先生の対談を聞きに行く。
身近な人の死による喪失感や、そのグリーフワークがテーマ。

自分自身は1回しか死ねないというのに、
身近な人の死は、1回とは限らない。否、
たいていは1回ですまないはずだ。

「急死だったので、その後の3年ぐらいは、呆然として記憶がありません」と、
N先生が父親を亡くされたときの話。
大切な人を亡くすというのは、見送る側にもひどくつらい思いが残る。
それが突然の死であればなおさらだ。

死別の悲しみなど、ろくなものではない。
コントロール不能な状態に襲われ、何年でその嵐が去るかもわからない。
仕事もおぼつかなくなり、下手をしたら、自分自身の命も危ない。
江藤淳さんのように、つれあいを亡くした悲しみで死んでしまう人もいるのだから。

そんな危険性のある「誰かとの死別」は、しかも、いつ訪れるか知れない。
大往生だけではない。病気や怪我、不幸な事故も含めて、
あらゆる角度から、あらゆる方法であらゆる時に、人は死ぬ。
自分が悲嘆に暮れ、少なくとも数年をフイにする危険性が、常に潜んでいるのだ。



そこまで面倒な悲しみを背負うのはまっぴらなので、
自分は誰とも一切関わらずに独りで生きていくのだ、
というのも一理ある。
砂をかむような味気ない人生かもしれないが、合理的でもっともだ。

でも、やはり私は、どちらかを選ばなければならないとしたら、
「死別の悲しみ」を引き受けてでも、出会うべき人とは出会い、
関わるべき人とは関わりを深めて生きる方を選ぶと思う。

「失って悲しくて仕方がないもの」をもてることは、
人生を深く、豊かにすると思うし、
人と人が、お互いの死を引き受けて共に生きるというのは、そう悪くない。

2004年11月11日(木) 月と暦


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