自宅へ。
中秋の名月も楽しんだ。連休も終了である。
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この休みに稲刈りを済ませた田が多い。
新人を「新米」と評すのには意味がある。もちろん褒め言葉ではない。 新米を食すというのは、その年の収穫分しか食べるものがないという意味で、貧しさを表すものだったのらしい。 倉の建つ庄屋などでは、新米を常食などにしなかったそうである。
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米というのは、日本人に因縁深い農作物だ。 天明の大飢饉は、石高を上げるため米に不向きな土地で無理やり米を作らせたために起きたと言われている。
かように国の財政力指数に使われ、市民が暴動も起こす原因にもなった。 ある特定の植物の特定の部位が、貨幣とほぼ同等の意味を持って流通したとは、つくづく不思議である。
* 金目としての農作物の存在は、昔の米とは違うけれど、当然存在する。 そしてこれは農業従事者には失礼かもしれないが、換金物として農作物を見ることには、どうしても抵抗がある。
畑や田で実る収穫は、純粋に天と地の恩恵による食糧なのだと思いたい。 幾ら儲かるというように考えたくない。 じゃあもう売らないから自分で作れと言われそうだが、どうしてもそう思う。
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過日帯広の宿の箸袋でみた「十勝小唄」なる唄の歌詞は、 小豆で儲けてこの土地に金が降ってくるというようなもので、 農作物から金を連想させる。ついでに政治家の顔も浮かんでくる。 十勝の広大な農地を見て妙な違和感を感じた理由は、多分これだと気付いた。
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過剰に収穫された農産物を、生産調整と称して農地で廃棄するのは、 それが知恵のない金目作業であることを象徴する。 今年の夏八ヶ岳周辺では、大量のレタスが捨てられていた。 食糧自給率の低い島国が、天に唾する行為である。
2004年09月19日(日) アフターダーク
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