2005年08月17日(水) |
何者かになりたい症候群 |
山を一つ、二つ越え、浅間山文化圏で仕事。 供のいない長距離運転は、腹の足しにもならない雑念が湧いては消える。
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「なにがしかの者になりたい」という気持ちは、 今も昔も人の正直な気持ちとして存在する。
気になるのは、最近のそれの多くが 「何か有名な者」とか「何か儲けのある者」であるということ。
無名というのは無意味ではない。 往々にして、無名でいられる勇気と実力のない人が、有名になることを目標にする。そんな気がしてならない。 本当に個人で立つ人というのは、そんなことを考える暇などなく、自分のテーマと対峙しているはずなのだ。
それに−諸々の弊害があったにせよ−個人としては無名でも、組織の中でまじめに働くサラリーマンという集団に支えられてこの国は現在があるのだ。
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青色発光ダイオードを発明した中村修二氏の、「研究者個人に得がなくては研究成果は伸びない」という考えににわかには同意できないのも、そういう点。
彼が大した努力をしていないという訳ではなく、才能のない人という訳でもない。彼に何かが欠けているという資格は別に私にはない。 でも考えには違和感を感じるし、彼は人相が悪くなったなという感想を改めるつもりもない。研究者としてスレイブではなくなったのかも知れないが、金の奴隷になってしまった。そういう気がする。
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研究者や発明者の第一のモチベーションが、社会貢献でなくてどうするのだろうか。 何者かになろうとする人の研究成果などたかが知れているのではないかと思うのだけれど、私が知らないだけでそうではない現実があるのかもしれない。
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