2004年12月26日(日) |
子宝に関する仮定法現在 |
HとAと、風呂に行く。 明るい日が差す昼間の銭湯は、天国のようである。 白髪の可愛らしいお婆ちゃんが、Aに話しかけてくれる。 長い、色々な人生が織り込まれているであろうしわしわのお腹や乳房を、 Aはじっと見つめている。
ワタシには子どもがいないのだけれどね、あちこちで子どもの絵などを見るのは楽しいですよ、 と言いながら語り始めた中年の女性。
小さい子どもが書いた、ただぐるぐると円を描くだけの絵だの、人形の絵だのというのを、 親というのは慣れてしまって特別意識することもないでしょうけれども、 おじいさんおばあさんが見れば、さぞ愛しいものにみえるのでしょうね、という話。
子宝に恵まれなかったのか、所帯をもつことをあきらめたのか、 一体どういうことで子のない人生を送るに至ったのかはわからないけれど、 人生を長く経て中年に至り、この人はこんな想像力を働かせて、 自分よりもはるかに若い「親である人」に語りかけている。 祖父や祖母というのはこう思うだろう、というところまで思いを及ばせている。 感心すると同時に、このことはとても不思議であり、 私も、その人自身の心の旅を想像してしまう。寂しい時はありましたか、と。
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子宝に恵まれないことに向き合う人の、寂しさや苦悩には、 筆舌に尽くしがたいものが、あるのだろう。 あきらめる、と思い切るには、あまりにも重たすぎる。 あきらめない、と願いを続けるにはつらすぎる。 子宝神社というのがあるぐらいだから、これは普遍的な思いかもしれない。
不妊治療については言及するつもりもない。 必要なのは別の人生の選択への希望と救いではないかと思う。
きっと、子を持たない人生の旅路には、何かほかの、 最愛のパートナーや、すばらしい友人達や、輝かしいライフワークなどの 花が沢山咲いているのだろう。 親でない分、神様が幸せと充実を増量してくれているはずだ、 もしかすると、次世代に対する別の重要な使命があるのかもしれない、と、 そう思いたいのである。
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