コマワリとフキダシの話は、まだまだ続くのである。
Hが出発前に何度も念を押していたのが、愛読している「月刊アフタヌーン」を忘れずに買っておいてほしい、ということだった。
それが未踏峰のインドヒマラヤに挑む男の望むことかね、と呆れつつ、 ご要望に応じておく。
世間様は往々にして間違いがちなのであるが、高所を目指すクライマーは、植村直巳やクリスボニントンのような人格者ばかりではないのである。
素晴らしい人生観をもち、積極的に社会参加している人もいるが、少数派だと思う。大体は、世間よりも空気の薄いところでないと生きていけない、愛しくも可哀想な人種なのだ。長年ウォッチングしていてそう思う。
ちなみに野口健という有名な人がいるけれど、彼の場合、登山家がボランティアなど社会的な活動をしているのではなく、社会的な(それも極めて社会的な)人が登山活動をした、というふうに私は解釈している。
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話がそれてしまった。 今日はマンガの話を書かなければならない。徹底的に。
この、月刊アフタヌーンというなんだかマニア向けで不可解な月刊誌の中に、 一つだけ、私の大好きな作品がある。単行本が出たので手に入れようと思っている。
リトルフォレスト(五十嵐大介 月刊アフタヌーン) 東北の小森(東北地方には地名や山の名前に森という字がとりわけ多くみられる)という集落の、四季折々の様子を描いたものである。
農作業と農作物の加工作業をゆっくりした時間の中で丁寧にこなし、収穫物を本当に美味しそうに味わう様子が、丹念に綴られている。
それはそれで美しい精密画や小説のようで大変いいのだけれど、この作品のよさは、通り一遍のナチュラルライフ賛歌でないところにある。
主人公の女の子は母親が失踪中であるし、都会の生活に順応できず、手ひどい失恋などもして都落ちした過去もある。近所の女友達と深刻なケンカなどもする。こういう屈折した背景が、うな重の山椒のようにぴりりと利いているのである。
これがなかったら、この作品は、よくできたただのスローライフガイドとして、政府刊行物のような、ちょっといやらしい代物になっていたと思う。
まことにストーリーテラーとは、大したものだ。
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