時事社会から遥か彼方にいて、数日過ごす。
10代の子どもとその親に対する、 心と身体のケアに関する講演を主催。
聴講者は、もともとこんな機会がなくとも、 既に認識と理解がある人が主のようであった。
講演会とかシンポジウムというしつらえは、 同種を呼び集めることはできても、 異種を集めることは難しいことを実感。
賛同や期待どおりの反応は、 それはそれで主催者としては喜ばしいけれど、 しかしこういうことは、それでは意味がないのだ。
オセロの駒が黒から白になるように、 昨日までの認識を変え、新しい考えや生き方を導き出せる、 「改変率」とでも言うべきものが、 効果として欲しかったのだ。
一人でも二人でもいい。 少しずつでも、確実に黒が白になれば、 ある時点でダイナミックな反転を見せる。 そういうことを期待している。
次に何かするときは、 どうやって、どこに駒を置くかに、知恵を絞らねばならない。
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千葉県で「障害者差別禁止条例」なるものが検討されている。 堂本知事の福祉に対する基本的な考えや政策上の決意は 知っているし理解もできるのだけれど、 この条例はどうも違和感を感じずにいられない。
差別や偏見や無茶な振る舞いというのは、 個人の意識が変わらなければどうにもならない。 法律や制度で、しばりをかけて良くなるものではないのだ。
「障害のある人もない人も、一緒に助け合って暮らすことは とても豊かで楽しいことですよ」と、 どうして働きかけないのだろうか。 そう思える人が一人でも二人でも増える努力を、しているのだろうか。
当の障害者やその家族の方々は、 「私は条例で規制されているので差別はしません」、 と言われて喜ぶのだろうか。
オセロの駒は、強制的に全て白にした時点で、 白が白であることの意味を失うのである。
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