2004年05月20日(木) |
油断スイッチで幕があがるとき |
350ml程度のビールはあっという間に空になって、 物足りない気分のあてつけに、 行儀悪く缶をペコペコいわせながら、深夜考え続ける。
契約社会の現代では、甲と乙の関係はいつも明瞭だ。 しかし運用面ではたいてい曖昧にされるから、 明確にされた関係、それも優劣のはっきりしている立場に おかれることは、実は結構少ないのだと思う。 自分が圧倒的優位に立てる場面は、さらに稀だ。
国民は、そういう麻薬的な状況設定に対する耐性がない。 そして何かを企む者は、そこを利用する。
治安維持という興行と舞台を用意し、 国民という役者に兵士と捕虜、という 明確な配役を保証し、 さらに圧倒的優位、というスポットをあて、 台詞や所作まで指導すれば、 惨劇はたやすく幕をあげるのだろう。
イラク人捕虜の虐待については、意図するかしないかは別に そういうシステムが働いたのではないか、と想像する。
圧倒的優位という段差を、100段目から99段目の プチ権力としてしつらえられて、 それで喜んだり道を外すような人間になりたくない。
そして、内なる暴力性を増殖させるような、 日々の鬱憤をつくりたくない、と心から思う。
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非人道的なふるまいをしてしまう 油断スイッチというものがあるとすれば、 日本人はオフからオンに入るのが早い国民性かもしれない。 平常時には完全オフでロックまでかけてあるけれど、 何かの拍子にあっという間にオンになってしまう怖さは、 ほんの一世代か二世代前の大戦で明らかだ。
そしてアメリカという国は、このスイッチが常にニュートラルに入っていて、 必要があればいつでもオンにする準備ができている国と感じる。 そうやって建国から何百年も生きてきた国なのだろう。
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