2004年05月19日(水) |
国語の時間に教わったことの話 |
日帰り上京。
国語学者の金田一春彦さん死去のニュース。 随分前になるけれど、 若者の乱れた日本語、という風潮に対して 言葉というのは生き物であり変化するもの、 というコメント、またこれに添えて、江戸時代に 今で言う「乱れた」結果生じた言葉(失念!)が、 現代では一般的に使われています、という説得力ある事例解説。
当時、こういう見解は生半可な国語学者ではできないと 感心したものだ。 日本語の生態を理解し、心から日本語を愛していたのだと思う。
新明解国語辞典という、 全く愛すべき国語辞典を編纂された方でもある。
ご冥福を祈りたい。
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昨日の虐待に関する事項を、車中で再考す。
明らかな力関係、しかもそれが 当分引っ繰り返らないという確信や、公然と認められる場合に 人や組織は何かの間違いをおかすのではないか、という仮定。
公的に君臨を保証されたと思っている、看守や教師や役人。
圧倒的な経済カードを手にしたと過信した、 バブル時代の不動産業界や建設業界にしても どうも同じようにみえる。
また、当分死ぬことも体力の衰えもないと思っている若者や、 経験値で子どもより先行できていると思っている大人についても、 同じ過ちのカテゴリに入れたくなる。
程度や現象の差はあれ、たいがいどこかで、 後でひどく後悔するような無茶をしている。
おごれる者も久しからず、という名文が 700年近く前につくられているが、忠告としては あまり機能しないようだ。 行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、というように、 こういう教訓はフローでありストックにはならないのかもしれない。
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