世の中が豊かになって、困っている人を助けましょうとか、他人に手を差し伸べましょうとかいうのが美徳であり、自分だけ助かればいいというのは利己的で人でなしだという風潮がある。 いやそれはその通りなのだけれど、緊急避難というのがあって、震災時はそれを適用して良い筈だ。 私の知り合いも津波で命を落としたが、どうやら伝え聞くところによると、近所の人の避難を手伝っていて逃げ遅れたらしい。 私なら、手伝いを乞われても、 「カルネアデスの板!」 と叫んで自分だけさっさと逃げるだろうが、彼女は親切心溢れる素晴らしい人だった。最後まで。 私のような人でなしが生き残って、彼女のような人が死ぬなんて、不条理な気がする。 世の中は、そういう風に出来ているのだろうか。 彼女のような人は、沢山いたらしい。 教え子を助けに行って津波に巻き込まれた先生とか、放送で市民に避難を呼びかけているうちに逃げ遅れた市役所職員とか。 マスコミは何故かそういう話を感動ストーリーに仕立てたがるが、遺族にとってはたまったものではないだろう。 他人なんてどうでもいいから、さっさと逃げて欲しかったと思うのではないだろうか。 少なくとも私ならそう思う。他人の感動のために死んで欲しくない。 身内の死を感動のネタにしているマスコミや第三者を見たら、巫山けるなと言いたくなる。
「命てんでんこ」というドキュメンタリーのダイジェスト版を見た事があるのだが、その中で津波の語り部の婆ちゃんが、大津波に遭ったという祖父ちゃんから幼い頃から言い聞かされていた言葉が、 「津波が来たら、命はてんでんこ」 であった。 「てんでんこ」というのは「銘々、それぞれ」という意味らしい。 津波が来たら親も子も無い、構わずに自分だけで良いから山に逃げろという教えである。 その話を聞いて、ロトの話を思い出した。 私の好きなロト6ではない。聖書の物語だ。
ロトは義人である。 世の中は乱れ、神はソドムとゴモラの町を滅ぼす事を決めた。 神は天使を遣わし、ロトに夜明け前に町を出るよう伝える。逃げよ、決して振り向いてはならぬ、と。 言われた通り、ロトは妻と2人の娘を連れて町を出る。振り向くなと言われていたのに、妻は言いつけを破ってしまう。残して来た物に未練があったのだ。 町を振り返った妻は、塩の柱にされてしまう。 ロトと娘達はそのまま逃げて、助かった。
というお話である。 まあこの後、近親相姦があったりと、それでいいのか聖書という展開だったりする訳だが、それは横に置いといて。 逃げる時は逃げなきゃ駄目なのだなあと思った次第である。 そう言えば子供の頃、避難訓練でモタモタしていた私は、 「ハイ、遅れて来た貴女、死にましたからね」 ハイ死んだ!と修造みたいに先生に言われた悔しい思い出がある。 当時は子供心に物凄くむかついたが、そういう思いをしたからこそ、現実の避難の際には貴重品だけ持ってさっさと逃げる事が出来たのだろう。 津波の被害者の中には、思い出のアルバムをとりに戻って死んじゃった人もいるとか。自分が思い出になってどうするよ。 思い出は二の次三の次、まずは自分の命、それから現金と貴重品である。
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