天上天下唯我独尊

2007年01月13日(土) 宗教は阿片である 後編

幸福というのは、宗教におけるひとつのキーワードである。
またある日、他の宗教に嵌まった別の後輩に誘われ、私は出かけて行った。
論破するほどの自信は無かったが、その時は、暇潰しに平行線の会話に付き合おうと思ったのだ。
苛められっ子だった後輩が、入信して幸せならばそれでいい、と思った。
待ち合わせ場所にいたのは彼だけではなく、彼の宗教上の先輩も一緒だった。
その人はこう言った。
「人生の目的って、何だと思います?」
私は即答した。
「幸福になる事でしょう」
マニュアル通りである。
相手は面食らった。まさかいきなり正解が出て来るとは思っていなかったようだ。
その様子を見て、私は思わずにやりとしてしまった。
相手も勧誘は無理だと解ってくれたらしく、その後は普通に宗教の話をして終わった。

宗教をやっていても、このように引き際を弁えている人ならいいのだが、先述の後輩は全く駄目だった。
負の波動を浴びているようで、話を聞くだけでこっちが疲れる。
頼むから、それをこっちに押し付けないでくれー!
しかし彼等にとっては、布教は「自分が幸福になるための手段」であると同時に、寧ろ相手が入信する事こそ相手にとっての幸福だと思い込んでしまっているので、勧誘される側の迷惑等全く考えない。
困った事である。

宗教の枠の外から見れば、各宗教が崇めているそれぞれのカミサマというのは、実は同一人物なのではあるまいかと思うのだが、当人達にとっては「自分とこの神様こそが神!」と思っているようだ。
十字軍やイラク戦争等が、そのいい例である。いや悪い例だが。
ま、戦争なんてのは宗教だけではなくて、経済的背景もある訳だが、信教の自由だ何だのと叫ぶ割には、他人のそれは認めないなんて、彼等は自己矛盾に気付かないのだろうか。
ああ、だから「盲信」なのか。

主人は宗教を嫌っている。
「イスラム教は、宗派が違うだけで同じ宗教なのに殺し合い、キリスト教は異教徒だからとイスラム教徒を殺す。これって宗教失格だよ」
と今日も怒っていたので、
「イスラム教の内部抗争は不思議よね。何であんなに激しいんだろ。キリスト教は、『汝の敵を愛せよ』を全く忘れているのが面白いなあ。自分に都合の良い解釈しかしてないもんね。だからさ、ここで貴方が教祖になって新しい宗教を」
と私がいいかけたところで、彼は
「嫌だ。宗教なんてキライだ」
とそっぽを向いてしまった。
うーん、この人が宗教家か政治家になれば、ソフィストとしての才能を発揮して世界を動かせるんじゃないかと一寸思ったのだが。
本人にその気がないのでは仕方ないか。


 < 過去  INDEX  未来 >


春 紫苑 [MAIL]

My追加