日々是迷々之記
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2004年05月09日(日) 正しさの意味

部屋の片づけをしながら、「情熱大陸」→「世界遺産」を続けて見た。「世界遺産」ではレッドウッドの森をアメリカの高度成長期にばっさばっさと切り倒していたが、今はその尊さに気づき、保存に力を入れているようなことを言っていた。一本の大木から20軒家が建ち、その幹は水に浸っても腐敗しないらしい。

その時は正しいと思ってやるけども、後に、やっぱ間違ってました。アハハハハ!という感じで手のひらを返したように反対のことをする。何だかとてもアメリカンな感じがした。多分、今やっていることだって、私がババアになるころには「2004年当時、アメリカ合衆国は民主主義という名の下に…」というように批判されているような気がする。

国家と個人というのはどういう関係なのだろうか?一昨年、カヌーつながりでカリフォルニアに住むカヌー好きの人を訪ねた。行ってみると小綺麗な家に大きなガレージ。ガレージの中には車に、バイクにカヌーにと、ちょぼくさいウサギ小屋にごっつい家賃を払ってモノを押し込んでいる日本人にはよだれものだった。彼らはドイツから移民してきたとのことで、いわゆるアメリカンな感じはしない。家のインテリアもドイツ風、食事もドイツ風なようで招かれた私たちは、彼らがドイツから購入したというドイツの地ビールをふるまわれ、カリフォルニアなのにドイツ風のもてなしを受けた。そのビールは、バドワイザーやクアーズなどの水のように飲めてしまうビールとは明らかに違っていた。

話ついでに例の911テロについてさりげなく聞いてみた。すると、「あれは国家がやっていることだから。」というような感じであまり実感として何かを感じているというような雰囲気はなかった。実際にそんなものかもしれない。カリフォルニアとニューヨークはあまりにも遠く、彼らは合衆国国民でありながらも、家族内ではドイツ語で会話をしている。

「国民」っていう人は本当はいないのかもしれない。「みんな」という人がいないのと同様に。子供の時のよくある言い訳で「だってみんなやってるもん!」というと、親や先生に「みんなって誰よ?」と突っ込まれて口ごもった、そんな記憶が蘇る。

もう20年近く前のアルバムだが、ジョン・クーガー・メレンキャンプという人の「スケアクロウ」というアルバムを今日、久しぶりに聴いた。私が洋楽を聴き始めたのは中学生になったころで、そのころ買ったCDである。当時は英語なんか全然分からなかったので、多分ノリで聞いていたと思うが、今聞くと重い。「正義と独立/Justice and Independence」、「フェイスオブザネイション/Face of the Nation」など、20年前からアメリカはこういう国やったんやと思わせるものがある。

Face of the Nation より
「国家はくるくると顔を変え、どれが本当の顔なのかわからない。たくさんの人がやりきれない気持ちを抱えながら、破れた希望に言葉を失う。次はきっと今よりましさと何につけても言われるが…。」

いやー、今日は何だか真面目だなぁ。


nao-zo |MAIL

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