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090727
2009年07月27日(月)




 犯人は母親を殺害し、娘を誘拐して逃亡した。この事件の奇妙な符合が、僕のなかである種の化学変化を促し、もともとそこにあったものをすっかり変えてしまった。符号といっても、傍から見れば他愛のないことだ。事件が叔母の住む団地で起きたこと。逃亡に使用した車のナンバープレートが僕の住むエリアで交付されたものだということ。逃亡潜伏先が母方の実家のある島だったこと。犯人の年が近くなおかつ義務教育の学区を等しくしていたこと。それらのあらましを知ったとき、レールのスイッチがカチリと切り替わった。これから進む先は、これまでとは全く違うだろうという妙な確信を得た。


 『私には他人の生命を引き受ける余裕はない。自分一人の生命の重みに
 耐え、自分の孤独に耐えていくだけで精いっぱいなのだ』

 『百貨店の大きくひらかれた一階の、高級な、手入れの行き届いた光の
 なかの一点の曇りもない大きな鏡のなかで自分の顔を映せば、色々な感
 情は奥へ奥へとひきのばされて女自身にもつかみどころのないものに変
 化して、それをまんべんなく見つめて、そこからしか見えないものを、
 隅々まで管理しつづけること』


 孤独と反骨精神が原動力だった。独りで生きていく。負けない。逃げない。そうやって大抵の辛いことは乗り越えてきた。けれど、Tと知り合ってから、そういった感情がエネルギーとして機能しなくなった。僕はこの状況に動揺せずにおれなかった。鋭敏さや押し負けない強さが、安穏として鈍感な弱さに取って代えられるのは耐え難い。君は人に甘えるのが下手だ、とCさんは言う。その言葉は目頭を熱くさせたが、少なからず僕を苛立たせもした。人の言葉を素直に聞けずに、疑ってかかってしまうのは悪い癖だ。負けん気の強さが前面に出てしまう。人に甘えなくたって、自分が強くいさえすればいいだろ、と思ってしまう。Iさんは言う。あなたはなんでも独りでできてしまう。けれど時には人に頼ることも大切よ、と。自分独りでやった方が上手くこなせるのに、なんで人の力を借りなきゃならないのか、と僕は思う。


 『トゥレット症候群のひとたちの多くは運動に惹かれるが、(たぶん)
 ひとつには運動の際に要求される並外れたスピードと正確性のためであ
 り、またひとつには彼らの瞬発力と過剰なほどの動的衝動とエネルギー
 がはけ口を求めるからだろう。演技や試合のなかでは、彼らの衝動とエ
 ネルギーは爆発的に発散されるのではなく、調整のとれたリズミカルな
 流れとして表現される』

 『ここでは、単なるリズムやいわゆる自動的な運動パターンの共振とい
 うよりももっと高度なレベルのなにかが働いている。このときには(今
 後、心理的あるいは神経的レベルで明らかにされるべきものだが)、変
 身あるいは別人格化が起こり、そのパフォーマンスが続くかぎり、他者
 の技能や感情、神経レベルでの記憶痕跡が脳を占拠して、人格も神経シ
 ステム全体も組み替えてしまう。このようなある役割、ある人格から他
 の人格へのアイデンティティの変化、人格の組み替えは、毎日の暮らし
 のなかで誰にでも起こり、親から職業人へ、政治家へ、エロティックな
 人間へ、その他のさまざまな役割へと変身している。だが、神経的、心
 理的な症候群のあるひとの場合、それにプロの演技者や俳優の場合、こ
 の変化がとくに劇的なのである』

 『でもそれから何時間かたち、そんな空気が徐々に薄らいでくると、あ
 たりはまた淡い哀しみの衣のようなものに包まれていった。そして結局
 のところ僕はこちらの世界にいて、叔父はあちらの世界にいた』





 分裂している。岬の突端で強い風に吹かれている自分と、あたたかな部屋でTと寛ぐ自分に。半身の引き裂かれる不安と恐怖が、近付くTを拒絶した。かけがえのない関係が恐い。一人の人間に比重が増すと、失くしたときの損失も大きい。自分の好ましい面や美点が根こそぎにされてしまうのが恐い。しかしそうやって恐い恐いと言ったところで、もう後戻りはできない。一度知ってしまった温もりを、僕はきっとまた欲しいと思うに違いない。独りで生きていく。いや、もう独りでは生きていけない。


 『彼女はその致命的な欠落のまわりを囲うように、自分という人間をこ
 しらえなくてはならなかった。作り上げてきた装飾的自我をひとつひと
 つ剥いでいけば、そのあとに残るのは無の深淵でしかない。それがもた
 らす激しい乾きでしかない。そしてどれだけ忘れようと努めても、その
 無は定期的に彼女のもとを訪れてきた。ひとりぼっちの雨降りの午後に
 、あるいは悪夢を見て目覚めた明け方に』

 『だからこそ青豆という安定したパートナーを必要としたのだ。自分に
 歯止めをかけ、注意深く見守ってくれる存在を』


 猫の町へ行く。丁度今読んでいる本の主人公も猫の町へ向かっている。年齢も一緒だ。現実では母親を殺害した犯人が娘を誘拐して逃亡した。事件の起きた団地、ナンバープレート、逃亡先、年齢、育った町。

 作中と違うのは、たとえ損なわれても父がそこに生き続けているという点だ。僕はそれを嬉しく思う。高速道からの川沿いの風景は、遠目には何一つ変わっていないように見えた。Tと生きていこう、ふと、そう思った。


 『これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。そ
 れがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動
 いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうと
 しているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はな
 い。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き
 延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしな
 ければ、この心を失いさえしなければ』


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Zepp東京でくるり、サカナクション「J-WAVE PLATOn LIVE」

早稲田松竹でテンギズ・アブラゼ「懺悔」
ファティ・アキン「そして、私たちは愛に帰る」
シネカノン有楽町2丁目で中江裕司「真夏の夜の夢」

銀座ニコンサロンで「榎本 敏雄展[アルルカン]」
東京都写真美術館で「コレクション展『旅』第2部
『異郷へ 写真家たちのセンチメンタル・ジャーニー』」
国立新美術館で「生誕150年 ルネ・ラリック
華やぎのジュエリーから煌めきのガラスへ」


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舞城王太郎「SPEEDBOY!」
津村記久子「ポトスライムの舟」
村上春樹「1Q84 BOOK1〈4月-6月〉」
「1Q84 BOOK2〈7月-9月〉
よしもとばなな「王国 その1 アンドロメダ・ハイツ」

読了。





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