人間だけが神を持つ。可能性という内なる神を。
そう言ってクシャトリヤを手描きでグルグル回しても未来は切り開けないし、シャアを出しても可能性は開かない。禿(富野)や永野がこれを見たらどう思うんだろうか。ガンダムOOを見て感じた可能性が、ガンダムUCを見て絶望に変わりそうです。
戦わないガンダムという可能性を示したダブルオー。 彼らはMSのデザインや動き、CGを「ガンダムらしくない」というだろうが、未来を切り開くのに「ガンダムらしさ」が必要なのか?
もちろん、顧客の要求を満たす娯楽も必要だが、そのためのユニコーンは可能性を語ってしまった。それはつまりニュータイプという可能性が再び過去に回収されて無に帰すという絶望を連想させてしまう。
僕はけっこう前から現実は一方的で理不尽な賽の河原だと思っている。けれど少しでも可能性があれば信じて積み上げる。それは祈りにも似た行為だ。もちろん、出来る事はやる。最善は尽くす。しかし、現実の不確定性は必ず最後の最後に自分ではどうしようもない要素を残す。人類の英知はまだ全てを予見するには到っていないのだから、予想も対処も出来ない。それはもう祈らずにはいられないくらい、信じるしか方法がないのだ。
そして案の定、最後は崩れる。それを繰り返すのが僕の人生だったと思う。けれど、いつも必ず残る物があったし、残滓の中には次への希望や可能性が残っていた。僕はその可能性を糧にどうにか生きてこれた。
細々と、しかし連綿と続く希望と可能性の繋がりが僕の歴史であり人生なのだとしたら、もう僕の人生は終わってしまったのかもしれない。という想いに支配されている。
彼女のとの事は高く、本当に高く、それこそ三途の川を渡れそうなほど高く積み重ねられたと思っていた。しかし、案の定崩れるわけだが、崩れてしまったこと自体は致命的な問題ではない。問題なのは崩れた後にやり直せる可能性が見つけられないという事だ。
やり直すのというのは、ヨリを戻すとかそういう即物的な事ではなく、僕が次の段階に進んで新たな賽の河原をやり直せる可能性なり希望の話だ。
詳細な経緯は克明に記せるほど明確ではないので省略するが、とにかく生きている事に意味が無いのだ。もちろん、対外的には多少の意味はあるのだろうし、だから僕の周囲は友人も職場も含めて僕に優しいのだろうけれど、僕の内部的には、もはや生きている意味は無い。
目指すべきものはあった。 けれど、その石は崩れた。 その結果、残った真理は「全ては無に帰す」という絶対に近い認識。 ようするに「あがり」に到達してしまった感を払拭できない。 しかも「あがり」に用意されていたのはBMWに満足する自分ではなく「祈りは届かない」という絶望的な真実。 だから、まあガンダムとかパソコンとか地デジ化とか仕事とか楽しめる事はあるのだけど、もう「あがり」にいるのですぐに虚しくなる。
人生は「生きて帰りし物語」つまり通過儀礼の繰り返しで、少しずつ脱皮して成長していく。だから、賽の河原の石が崩れる瞬間とは象徴的な意味で死の瞬間なのだ。そして、次の新たな生が始まる。
問題なのは、その象徴的な死から戻って来れない事だ。現状は完全に死んだ人間のままだ。だから、生きている意味が無いと感じるし、やはり今までの全てを断ち切ってやり直せるほどの力(=僕にとっての力は希望、可能性)も残っていない。
だから、いつまでも美少女とのラブラブセックスを夢見てオナニーを続ける事しかできない。要するに同じ所をグルグルと回ってオナニーから抜け出す道が見えない。同じ所をぐるぐる回っているだけなら、生きていても意味が無いし死んでいるのと同じだ。
「いつ死ぬんだろうか」とふと他人事のように思う事がよくある。その他人事っぷりと言えば、「早く校長の話終わらねぇかなぁ」というくらい現実感も切迫感もない、どーでもいい感じなのだ。
昔の「死にたい」は生への執着と表裏一体だったのだろうけれど、今は生への執着がないので「死にたい」にも切迫感はない。
だから、生きている。それだけ。 自殺すると周囲に多大な迷惑がかかるし、お金がもったいないのでしないけれど、ふと死ねるレベルである事は間違いない。
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