**Secret**..miho
*ドクハラ...前編
2003年05月30日(金)
近年、セクハラ(セクシャルハラスメント)という言葉が世の中に普及し、女性の権利が次々に主張されるようになってきた現代において、ドクハラ(ドクターハラスメント)という言葉の存在も、ひそかに注目されるようになってきているようです。ドクハラとは、主に女性の患者さんたちが、主に男性の医師たちから、精神的に傷つくような発言を受けるという、一種の医師という権威を悪用した言葉の暴力なのです。主に産婦人科という、最も女性という性が強調される場で生じる事が多いために、その犠牲者は女性が多く、驚く事には、男性の医師だけではなく女性の医師からも受ける事があるというのです。病気を抱えた患者さんたちは、身体的な病だけではなく精神的にも病んでいる場合が多いので、医師たちは、そのような患者さんたちに対する接し方にも細心の配慮を心掛けて対応し、治療に当たっていくべきだと思います。患者さんたちは、医師を信頼して救いを求めてきているわけであり、医師たちは、最善を尽くしてそれに応える義務を負わなければならないと思います。

病に侵された患者というものは、病気に伴う苦しみや不安感などに押しつぶされ、悲観的に陥りやすいものです。私の場合は、原因不明の神経難病であり、症状的にも重症だったたために、心身共にかなりの重いストレスに襲われました。特に、病名が判明して入院するまでの長い長い苦悩に満ちたトンネルの中で、ただただひたすら暗中模索をしていた約半年間は、これぞまさに生き地獄を味わったような気分でした。今年の夏で、退院をして2年が経つけれど、次第に、だいぶ病気の自分を受け入れて、前向きに生きていけるようになっていき、「なぜ私が、こんな病気にかかって苦しまなくちゃいけないのか…」という後悔はだんだん薄れてきたけれど、今でも、症状が悪化し出してから病名が判明して入院するまでの苦悩の日々に対する、約半年間の悔やんで恨みきれない思いは、決して消える事はありません。一年間の入院生活に関しては、今では、とても貴重な経験であったと自負できるようになったけれど、入院直前までの約半年間は、今でも、「とても無駄な」ブランクであったと後悔し切れず、当時の事を思い出す時はいつでも、その思いは再びよみがえり、私を当時の苦悩へと引きずり込みます。

早期発見ができていたならば、入院生活も短期で済み、免疫抑制剤も飲まずに済み、大学生活も有意義に過ごせていただろうと思います。なぜ、早期発見ができなかったのか…その理由は、入院するまでの苦悩に満ちた約半年間の日々が物語っています。思い出したくない日々…大学1年生の春休みから大学2年生の夏休みにかけて…19歳6ヶ月目から20歳になるまでの約半年間。最も病状の悪化が著しかったこの約半年間は、気力だけで奇跡的に生き抜いた、まさに孤独と苦悩の生き地獄でした。

発病したのは大学受験の頃からだったけれど、その頃はまだ、一時的な顔面の歪みと首の重怠さだけだったので、日常生活にはさほど支障はありませんでした。大学へ入学してからも、それらの症状が徐々に悪化してきただけで、日常生活は普通に送れていました。少しずつ全身的に異常を感じてきたきっかけは、大学1年の後期の体育の授業でした。元バド部だったのに、バドミントンが上手にできなかったり、腕立て伏せや腹筋などの基本的な体操がまったくできなくなり、バレーも卓球も縄跳びも長縄も、体が思うように動かなくて全然できなくなっていたのです。体力測定に関しても、どの項目もランク外で、当時は、それは年による体力の衰えなんだと笑いながら割り切っていました。しかし、その体の異常は次第に私の悩みとなり、頭から離れなくなってしまうほど、どんどん顕著に大きくなっていきました。当時の体育の授業で、生まれて初めて体脂肪を測った時、それまで平均47キロだった体重が43キロになっており、体脂肪は18でした。やせた〜♪体脂肪も少なかった〜♪と、はしゃいでいたけれど、それによって心の中の不安感や悩みはさらに大きくなっていました。

決定的な一言は、バドの試合で貴重な一勝をし、喜びながら「やっと勝てました〜♪」と先生に報告をしに行った時、「勝てて喜んでいるのに、なんでそんな泣きそうな顔をしているの?」と。先生が意味していた事は、その時の私の表情が、嬉しくて泣きそうではなく、悲しくて泣きそうな表情であったという事がすぐに分かりました。なぜならば、笑顔が泣き顔に見える…それが、私の発病当初の最も顕著な症状だったからです。それが今や、日常生活の中でも見られるようになってしまった…やっぱり私は何かの病魔に侵されているんだ、そしてこれらの体の異常も、その病気が悪化してきている事の証なんだ、という確信がここで生まれてきたのです。

それ以来、半信半疑で、原因不明の病魔との闘いは始まっていきました。何かの異常を感じると必ず頭をよぎる、目に見えない病魔の存在にもがき苦しむ日々が続いていったのです。もしも、これが病魔でなければ、きっと何事もなかったかのように良くなっていくはずであると信じようとしても、いくらその存在を忘れようとしても、体の異常が私に示してくるのです。なぜ体が鉛のように重くて思うように動かないのか…その病魔の正体は一体何なのか…私は一人、わけも分からず悩み苦しみ続けました。大学1年生の期末試験、試験地獄という過度のストレスで食欲不振になり、体重は40キロまで減り、心身共にどんどん衰弱していきました。そして、春休み…真の生き地獄が始まりました。

大学一年生の試験もすべて無事に終え、試験地獄によるストレスからの解放によって、体の異常も一時はおさまったかと思いました。約2ヶ月間の春休み♪高校時代までは春休みも短く、課題もあって忙しかったために、ゆっくりとは遊びに行っていられなかった千葉の親戚の家へ、今年こそは1ヶ月ほど滞在しようと計画を立てました。ただ遊びに行くだけではなく、向こうでの短期のバイトも考えており、大学生活最初の充実した春休みが送れると思っていました。試験が終わった2月の下旬から、早速親戚の家へ行き、近所のスーパーのバイトの研修に参加しました。力仕事ではあるけれど、ただの袋詰めという単純な作業だったので、簡単にできそうだぁ♪と思いながら最初からはりきって頑張っていました。しかし、同じ作業を繰り返していくうちに、お客さんに対して、笑顔で「いらっしゃいませ」と言うだけの事が困難に思えてきたのです。つまり、笑顔ができない!!言葉がうまくしゃべれない!!この時、再び脳裏に不可解な病魔の存在が現れ出してきました。

しかも、今回の苦痛は、それまで以上の莫大なものでした。今思えば、試験による過度のストレスとバイトの力仕事が重なって、悪化を促進させてしまっていたという事に気付いていなかったのです。初期症状だった首の重怠さが、ついに首を自分の力では支えていられないほどまで悪化し、一度下を向いて作業をしていたら、自分の手で持ち上げない限り、顔を上げる事ができなくなってしまったのです。でも、お仕事中には、お客さんの顔を見ながらちゃんと挨拶をしなくちゃいけなかったので、意地でも顔を持ち上げて、今にも泣きそうな引きつった笑顔で、やっとの思いで大きな声を出し、挨拶をしていました。おかしい…おかしい…不安に駆られながらも、次々と病魔は私をむしばんでいきました。

次第に、腕までも持ち上げる事ができなくなってしまいました。袋詰めが終わった荷物を持ち上げようとした時、しょっちゅう途中で力が抜けて下へ落としていました。このバイトの経験は、今ではとっても考えられないほどの無謀な行為です。ただでさえ午前中は調子が悪いのに、約4時間もぶっ通しで、ずっと立ちっぱなしの力仕事だなんて…*当時は、自分は病気なんかじゃない!!という気力だけで頑張れたようなもので、今では到底できない事です。バイトには、髪を一つに束ねて行っていたんだけど、朝、髪をくくろうとしたら、腕が持ち上がらなくて、ゴムも引っ張れなくて、たかが髪を結ぶだけの行為なのに、それすらできなくなっていました。しかも、バイトが終わって帰って来てからも、腕を上げようとしても絶対に肩以上には上がらないのです。おかしい…おかしい…しかし、家では笑顔で大声を出す事もないし、緊張もしないし、力仕事もしないために、首が持ち上がらなくなるほどの脱力はなくなっていたし、普通におしゃべりもできていたので、やっぱり本当の病気ではないのかなぁ…ちょっと過労だったのかなぁ…と、色々考えてみるだけで、病魔について深刻に考える事から逃げていました。この体の異常な疲労感も、きっと慣れないバイトのせいなんだと割り切っていました。

体に違和感を感じながらバイトをして3日が経ちました。まだまだ不慣れなせいもあって、精神的なストレスは膨大なものでした。途中で逃げ出したいとは思っても、そんな事ができる性格でもないし、最後までやり遂げて、春休みを有意義なものにするんだって決心していたから、頑張るしかなかったのです。バイトで働いているというよりも、病気の体と闘っているという感じの方が強かったです。明らかに無理をしていると分かる状態だったけれど、それ以前に、学校の事にしろ、普通に日常生活をやりこなしてこれたから、今もできないはずがないと思っていたのでしょうね。

でも、体はそう思うようにはいきませんでした。相変わらずひどくなっていく一方の病状に加え、今度は原因不明の頭痛と発熱が私を襲ってきたのです。私は風邪を引いたのだと思い、病院へ行き、解熱剤などの抗生剤をもらって帰りました。しかし、お薬を飲んでも飲んでも頭痛と発熱はおさまらず、とうとう寝込んでしまい、バイトもやめざるを得なくなってしまいました。無理を言って雇ってもらったバイトだったのに、たったの3日間でやめちゃうなんて…なんて情けないんだ。激しい自己嫌悪に駆られました。そして、無理をしてお願いをしてくれたおばあちゃんにも申し訳なくて、ただただ布団の中でうずくまって、やるせない思いでした。きっと、みんな私の事を意気地なしだと思っているんだ…おばあちゃんなんて冗談で、「みほちゃんはお嬢様だからねぇ〜働く事に慣れていないのよ。」なんて笑っていたけれど、私にはとてもぐさっとくる言葉でした。

体の異常の事を誰かに知ってもらいたい…「私は病気かもしれないんだ。」と話して、誰かにこの苦しみを分かってもらいたい。そして、この苦痛が消し去られてほしい!!私はその夜、寝床で泣きながらおばあちゃんにすべてを…心の中で破裂寸前になっていた苦しみをすべて打ち明けました。不可解な病魔に侵されているという事実を、事細かにすべて打ち明けました。聞いているおばあちゃんは、私がおかしな事を言っているとしか受け止められないかもしれない…でも、それまで一人で抱え込んできた辛い思いを、すべてその場でおばあちゃんに吐き出しました。

おばあちゃんは予想外に、親身になって聞いてくれました。そういえば、こうしておばあちゃんと真剣に語り合うのは初めての事だったかもしれない…。何だかすべてを打ち明けられた事だけで、心がほんの少しだけ軽くなったような気がしました。翌日、おばあちゃんは「家庭医学辞書」を取り出してきて、昨晩私が説明した症状を基に、色々な病気を調べてくれました。項目は、どうやら「神経・筋疾患」の部分に当てはまりそうだと調べていったら、疲れやすい、重い物が持てない、脱力がある、などの症例が書かれたページを見つけ、それを詳しく読んでいったらまったく私の症状と似ていたので、もしかしたらこれかもしれない!!と思った病気が、今の病気「重症筋無力症」でした。

実を言うと、その約半年後に主治医からこの病名を宣告されるまでは、その病気の名前は頭にありませんでした。というのは、おばあちゃんが私の病気ではないかとこの病気を疑った時、お母さんにそれを電話で報告してみたら、「冗談じゃない!!!!!」と怒鳴られて、それっきり、記憶からその「重症筋無力症」という言葉が消し去られてしまったのです。この病名を聞いたら、知らない人なら誰でも恐ろしくなるよね…筋肉の病気なんて、しかも「重症」が付いていて…お母さんは、比較的よく知られている「筋ジストロフィー」という病気を連想したらしく、それに「重症」が加わって、とんでもない!!と思ったみたいなのです。おばあちゃんもそれを聞いて、家庭医学辞典をさっとしまってしまいました。

またしても、私の謎の病魔との孤独な闘いは振り出しに戻ってしまいました。どうしても納得ができなくて…一体どうしたらいいのかも分からなくて…それでもやっぱり納得ができなくて…最後は、病院へ行くしかないと決心しました!!




m a i l



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