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2002年11月11日(月) 坂道の記憶、風景のこと

 学生時代、大学のすぐ近くにやたらと急な坂道があった。冬になると、本当におっかなびっくり下っていかなければならないような傾斜の坂だ。そこには車も通っていたし(自分がドライバーならあんまり通りたくはないような道だった)、たくさんの学生も歩いていた。僕はよくその坂を下り、そして上っていたのだけれど、その度に不自然なくらい急なその坂道を、なんなんだかなあと思いながら歩いていた。
 自転車で移動しているときには、その坂道を上りきるためには、結構前から加速をつけなければならなかった。加速をつけて上りきったときにはなんだか軽く達成感すら覚えたし、そうじゃないときには途中で自転車から降りて押しながら上った。無理無理とか思いながら。
 逆に下るときには、スピードが出すぎてちょっと怖いくらいだった。殺人的なスピードだったと思うくらい。

 いままでの人生(28年の人生と、そのうちの10年ほどの散歩人生)を振り返ってみても、その坂が一番急だったように思う。その坂の下から上の方を見上げたときのイメージを、いまだに覚えているほどだからだ。
 その坂の下には、当時付き合っていた恋人の小さな学生マンション(ピンク色の壁、3階建てで1つの階に20部屋くらいある細長い建物)があって、そこに行くためによく通っていた。だから、その坂の記憶は繰り返し刻み込まれているのだろうと思う。明け方とか、夕方とか、夜とか、たくさんの時間。その坂道を何度も通ったので、記憶の一本一本が藁のように束ねられているのだろうと思う。

 思い出そうとして、思い出すことのできる風景のストックがたくさんあることは、きっと幸せなことなのだろうとぼんやりと思う。他にも、出張時代とか、旅行とか、普段の(それなりにしばしば行われる)散歩とかで見る風景。そういうものはほとんどすべての時間忘れられている。コンビニで売られているコショウくらい忘れられている。けれども、思い出してみると、思い出そうとしてみると、結構たくさんの風景を思い出すことができる。結構たくさんの場所を通り過ぎてきたのだということを、思い返すことができる。

 とりわけ、何らかのエピソードと重ね合わせることで思い出すことができる風景も多い。たとえば、音楽に記憶が付着してしまいがちであるのと同じように、風景にもある種の記憶が寄り添う影のようにただそこにあるような気がする。

 たとえば、出張ばかりをしていた頃のことを思い出すときに、ある街の名前とその街での印象的な風景がセットで思い出されるように。

 ある旅行のことを思い返すと、あるイメージとともに風景が立ち上ってくるように。

 あるいは、かつて住んでいた街のよく利用していた駅を地図で見つけたときに、その街での出来事や駅の風景が思い出されるように。

 記憶は、いい感じにいい加減で、都合がよくて、けれどもちゃっかりツボを押さえていると思う。
 そういうのって、たとえば女の人にとっての、いつもはパチンコとか競馬ばっかりでだらしないのに、肝心なところではちゃんと優しくて気持ちをぐっと掴んで離さないでいてくれる恋人みたいだ。

 ぼんやりと、いろいろな風景を思い浮かべるようなとき、たくさんの風景が溢れてきて、そうしたらいままでの人生も捨てたものじゃないなとか思える。そんなささやかなことで喜んでいていいのだろうかと思わないわけでもないけれど、けれどもやっぱりそういうのは嬉しいことなのだと思う。

 たくさんの風景を思い返すことができること。
 そして、これからも同じようにたくさんの風景が増えていくこと。

 それは取るに足らない、ささやかなものなのかもしれないけれど、ささやかなもののなかには大切なことが多いような気がする。


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