Sun Set Days
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2002年11月05日(火) |
本と付箋紙+『私たちがやったこと』 |
ある頃から、僕は本を読んでいるときに気に入った文章を書いてあるページや、印象に残ったページの隅を折るようになった。もっと前は本を折るなんてと漠然と思っていたのだけれど、ある本を読んでから考えが変わったのだ。たとえば、古本に売るというのなら話は別だけれど、買った本を(箱に詰めて実家に送ることはあっても)売るというのはおそらくしないのでまあいいかなと。
だから、僕は読みながら下か上の隅を折る。より強く印象に残ったページでは下ではなくて上を、かなり印象に残ったところでは上と下の両方を折っている。そして、読み終わってからもう一度最初の方から今度は折っているページだけを読み返し、そのときに自分がそのページを折ろうと思った文章なり内容なりをまた発見することができるかと目で追ってみる。たいていの場合そのときにすぐわかるのだけれど、まれに何でこのページを折っているのだろうというときがあって、そういうときにはそのページの折り目は元に戻す。そうやっておくと、いつかその本を読み返すときに、自分がどこの部分に惹かれたのかということがわかって、興味深いような気がするし、それがビジネス書のようなものであるのなら、後で手に取ろうと思ったときに目指す内容にすぐにたどり着くことができるような気がする。 たまに本棚から折り目の付いている本を取り出して、ぱらぱらとめくるようなときにも便利だ。
あと、これは自分ではやってはいないのだけれど、最近漠然と思っているのが付箋紙を使うやり方だ。本を読むときに、付箋紙を10枚だけ用意する。そして、よいと思ったページに付箋紙を貼り付けていく。11箇所目になっても、付箋紙を追加することはできない。付箋紙は10枚だけだ。11箇所目が見つかったら、それまでの10箇所と比べ、どこかから1枚取り外して新しい箇所につける。そうやって最後まで読了したときに付箋紙のついているページが、その本の中での個人的なベスト10ということになる。
どちらかと言うと、このやり方はビジネス書や専門書の類に合っているやり方だと思う。もちろん、本はそんなことを考えずに、ただ読めばいいというのももちろん事実ではあるということを踏まえたうえで、それでもひとつの方法として、そういうこともありなのかもしれない。本によっては、10箇所は足りなさ過ぎる……ということもあるとは思うのだけれど。
その10箇所を読書メモとしてパソコンに打ち込んでおくとか、あるいはノートに書き写してもいい。 いろんなことを忘れてしまうから、いろんなことを形に残しておくこともありなのだと思う。
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『私たちがやったこと』読了。レベッカ・ブラウン著。柴田元幸訳。マガジンハウス。
昨年読んで強く印象に残った『身体の贈り物』の著者レベッカ・ブラウンの短篇集。全7篇が収録されている。 読んでいて少し驚く。前作とは結構雰囲気が異なっていたからだ。というのは、随分と顔が見えないような登場人物が多いというところ。前作では、リアルな世界の中で生きる登場人物たちのささやかな機微であるとか、やさしさであるとかかなしみであるとか、率直さのような感情をリアルに描写するところが印象的だったのだけれど(感情の湿りと乾き具合のバランスが絶妙だった)、この作品ではリアルな世界というよりはどこか幻覚を見てでもいるかのような、あるいは思い込みの果てに狂気に達してしまった人の内的独白のような、そういった人物と世界との境界線が曖昧になっているような作品が多数あったからだ。 たとえば、最初にある『結婚の悦び』という短篇では、新婚旅行で小さなコテージに来たはずの「私たち」が、気がつくと地下室もある大きな屋敷にたくさんの人を招いて、毎夜パーティを開き、自分たちの性生活を映し出したフィルムを上映するようになっていて、「私」は結婚相手である「あなた」とその屋敷のなかですれ違うばかりで出会うことができず探し続ける――といったような、どこかある種の夢のなかのストーリのようなものとなっているのだ。現在形をたたみ掛けるような文章も、前のめりなような、主観が広がって客観性を受け容れないような、そういう雰囲気を醸し出している。 また、『愛の詩』という作品ではある高名な芸術家の作品を、その芸術家と一緒に夜中に展覧会開場に忍び込んですべて破壊する「私」の一人称の物語なのだけれど、その破壊の行為すべてさえ「私」の思いが昂じての思い込みなのではないかと思わされるほどだ(1人で忍び込んで破壊したのに、その芸術家と一緒に行ったというように思ってしまっているような)。
いずれにしても、そこにはそこはかとなく狂気が色づいているように思えるし、依存の度合いを高めてしまったが故の妄想の世界、というようなものを連想させる。
収録作品の中で一番印象に残ったのは『よき友』という本書の中では一番長い話。前作に近い設定の、一番現実的な描写の多い作品。個人的には、あまりに幻想的な雰囲気を持っている作品よりは、どちらかと言うと現実をある程度写実的に物語っている作品の方が好きなのだとあらためて思った。 ある程度抽象的な作品に関しては、うまくはまるかどうかは結構ケースバイケースで、今回の場合の夢想的な側面に関しては、そういう意味で言うとあまりはまらなかったことになる。
けれども、それはただの好みの問題。 幻想的な短篇の方でも、読んでいて考えさせられるような、印象深いような表現はたくさんあったのだけれど。
いくつかを引用。
私は彼女の顔をまじまじと見つめ、そこに何かが欠けていることに気づく。いつ見てもそこにあるものだから、いつもずっとあるんだと思うようになっていたものが、いまは欠けているのだ。それは彼女が私に言えない何かだ。(69ページ)
そこはもう、慣れてしまった白い静かな場所ではない。入院もそんなに悪くないんだと自分に言い聞かせているうちに、健康というものがどういう姿をしているのか、ジムは忘れてしまったのだ。一人の男がホールを走っていって友達を抱きしめ、一人の女がかがみ込んで子供を抱き上げる。ジムが目を丸くして、黙ってそういう情景を眺めているのを私は見守る。ジムの気が変わってもいいように、車椅子をゆっくり押してホールを進んでいく。(146ページ)
その日の午後、ジムがチョコレートを一箱送ってきた。コピールームにチョコレートが届いたのだ。カードも付いていた。「あんな醜いあばずれのことは忘れなよ。代わりに僕たちを食べなよ、甘美なる君」。(152ページ)
あるときジムは私に言った。こう言ったのだ。「腰抜けになっているときに話すのは嘘。でもよかれと思って話すのはおはなしさ」 「本当の話じゃなくても?」 「本当なのさ。よかれと思って話せば、本当なんだよ」(157ページ)
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お知らせ
今日は仕事で埼玉に行く用事があり、6時ちょっと過ぎの電車に乗りました。いつもと違う電車は結構新鮮だったり(まあ、明日も同じ電車に乗るのだけれど)。
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