Sun Set Days
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2002年11月02日(土) 『物語の体操』+『使いみちのない風景』+『プロフェシー』

 6時10分に目が覚める。昨晩眠りについたのは午前1時30分くらい。
 1日分のDaysを書く。いくつかのページを覗く。PICNICAさんの「てのひらテキスト」がアップされていたのでそれを読む。アップされているのはわかっていたのだけれど、時間のあるときに読もうと我慢していたのだ。メシとフロの意味がわかる。みどりちゃんが魅力的。

 洗濯をして、午前中にAmazon.co.jpから注文していた本が届く。早速読む。

『物語の体操』読了。大塚英志著。朝日新聞社。
 最近、夜に30分ほどアマゾンのページで好きな本を絞り込む行為というのをしていた。アマゾンには購入履歴からオススメの本を100冊程度順位をつけて紹介してくれるページがあるのだけれど、その紹介の精度をさらに高めるために、アマゾン以外で購入しすでに読了している本についても、評価をつけることができるのだ。それで、たとえばオススメの上位には村上春樹の本が紹介されていたりするのだけれど、大半は持っているので、それに主観的な点数をつけていく。そうすると、どんどんオススメの本の中身が変化していく。そして、この本はそういう作業を繰り返していく中で、オススメの80位くらいに登場してきたのだ。
 サブタイトルが「みるみる小説が書ける6つのレッスン」で、帯に書かれている言葉をいま読むと「小説あるいは「文学」を神秘化するあらゆる試みを粉砕しようとする。(……)これは、「文学」の側に属していると自負する者には絶対書けなかった、絶命寸前の「文学」のための(あまりに危険な)処方箋なのだ。」とのことだ(帯の紹介文は高橋源一郎が書いている)。
 アマゾンの紹介文にも似たようなことが書かれていて、それで興味があって購入してみた。
 小説の書き方の本はいままで読んだことがなくて(文章や日本語の本は読んだことがあるけれど)、もちろん興味はあったのだけれどなかなかそういうのを手に取るのもな……と思っていた。けれども、実際読んでみるとなるほど、こういうことが書いてあるのかという感じだ。もちろん、この本自体は帯にあるようによくある小説のノウハウ本とは異なるアプローチをしているのだろうけれど。

 たとえば、著者は最初にこう書いてある。


 けれどもこの講義では「文章」の技術については全くと言っていいほど触れません。「文章読本」の類はいくらでも先人の書として存在しますし、何より、小説にとって文章の技術とはその工程のうちの最後に位置する仕上げの技術であって、数をこなしていくうちに案外自然と上達するものだとぼくは考えます。まんがの書き方を教えるのにスクリーントーンの貼り方のような作画上のフィニッシュワークを熱心に講義している入門書がありますが、小説にとって文章も実はそれと同じであって、ある部分では小手先の技術に過ぎない、とぼくは感じています。(11ページ)


 著者は元々漫画の編集者で(現在は原作者と批評家)、そういう文章の技術ではなく、<おはなし>を作るということに重点を置いて、その切り口から「小説を書く技術」を解説していく。
(この本は著者が実際に小説家を養成するような専門学校で講義していた内容を雑誌に連載したものをまとめたものであるから、引用したような口調の文章となっている)

 そして、こうも述べている。


 けれども小説家は本当に生まれながらにして小説家なのでしょうか。例えば大江健三郎でも村上龍でも吉本ばななでもいいのですが、彼らの小説を書く力はどこからどこまでが凡人には真似できないもので、どこまでならば凡人にも真似したり学習できてしまうものなのでしょうか。ぼくはこの講義を通じて、その線引きをしてみようと思います。その結果として<秘儀>の領域は小説にどれほど残されるのか。あるいは全く残らないのか。そのことを確かめてみようと考えています。そして仮にそこに残されるものがわずかにでもあるとすれば、ぼくはそれが「文学」と呼ばれ人々の尊敬を集めることに少しも異議も唱えるものではありません。(8ページ)


 そういった試みの講義(=レッスン)ではたとえば「誰にでも小説は書ける」と書き、(物語構造を)「盗作」してみようと述べ、方程式でプロットを作ることができると伝える。他にも村上龍になりきってみようとか、つげ義春をノベライズしてみようなど、結構自由度の高いことを行っている。それらはテーマがどうだとか抽象的なことに触れるのではなく実践的で、ある意味スポーツの練習のような雰囲気もある。ここに書かれている訓練を行うことによって物語る力がついていく、というような。素振りを繰り返すことでボールを捉えることができるようになるように。シュート練習を繰り返すことによってゴール枠にボールを蹴りこめるようになるように。

 わかりやすく、あっという間に読めてしまう。もちろん、読んでどうこうというのではなく、ここで解説されている課題をトレーニングのようにこなすことが重要ではあるのだろうけれど。

 でもまあ、トレーニングとしては、個人的には【Fragments】なのだけれど。

 ちなみに、買ったことのないこういう本を購入することにしたのは、上記に述べた理由のほかにもうひとつ、この本の著者が、ジョージ朝倉という漫画家の『ハッピーエンド』という作品のネームチェックを行った人物でもあるから。


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『使いみちのない風景』読了。村上春樹著。中公文庫。
 これもアマゾンで。おすすめランキングから村上春樹の本で読んだことのあるものをどんどん評価に加えていったら、この本を購入していなかったことがわかり注文した。他にも読んだことのないものがいくつかあったのだけれど(エッセイとか)、少しずつ。

 この本は村上春樹が文章を書き、稲越功一が写真を撮り、それらが一緒に収められているものだ。写真は非常に美しく、1ページに余白を大きくとって語られる村上春樹のエッセイも、いつものように面白い。表題でもある『使いみちのない風景』は定住と旅行の比較からはじまり、それぞれに付帯するクロノロジカルな風景――必要に応じていくつもありありと思い出すことができる意識的なもの――と使いみちのない風景――ほとんど身勝手に現れてくる無意識的なもの――とについて説明する。そして、使いみちのない風景についてこう言及する。


 それはリアルな夢に似ていると言ってもいいかもしれない。風景の細部はとても鮮明で現実的なのだけれど、そこでは前後の順番や、相対的な位置の認識が失われている。僕は断片の再現の中にいて、その断片はどこにも連結していないように感じられる。(60ページ)


 けれども、それらの関連性のないように見えるそれぞれの断片、あるいは使いみちのない風景は、いくつもの湖や泉が地下水脈で繋がっているように、無意識下において密接に繋がりあっている。


 それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景に――おそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に――結びついているのだ。(96ページ)


 だからこそ、それぞれの風景は連鎖し、やがてはひとつの使いみちのない風景から、別の風景を起点とした物語を生み出していくことができる。文章の中では、そのような使いみちのない風景の繋がりから、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が生まれたのだと書かれている。

 ある種の風景の断片(やイメージのようなもの)が、意識の深層の中で重なり合い、繋がり合い、ある種の化学反応のようなものを起こしていくということはよくわかるような気がする。そこにはロジックで詰めていくことのできない余白のようなものがあり、もしかしたらある種の偶発性のようなものに任せられている世界なのかもしれない。けれども、そういうイメージの集積、使いみちのない風景をたくさん引き出しの中に入れておくことには、決して小さくない意味があると思う。ある風景(やそこから喚起されるイメージ)のストックが組み合わされ、並べ替えられることによって、そこにまったく別の物語が立ち現れてくるということは充分に考えられることだと思うし。
 いくつもの果物をジューサーに入れてごうごう回すと、複雑な味のするジュースが出来上がるように。
 もちろん、記憶の中の、意識の中の風景を並べ替えただけで簡単に物語が産み出されるものではないのかもしれない。けれども、物語世界を構築するパーツとしては(もし物語を構成する要素を自動車のパーツのように分解することができるのであれば)、そういったフラッシュバックのように挿入される風景なんかは、ネジのように断片たちを、人物たちを繋ぎとめる役割を示すのかもしれない。

 大切なのは、まずただ見ること、身を委ねること、それから意識的に見ること。そして、取り込むこと。ごうごう回すこと。あるいはゆっくりとかき回すこと。
 場合によっては、考えること。

 気に入った文章をいくつか。


 結論から言うなら、いささか逆説的なロジックになるけれど、結局のところ僕は「定着するべき場所を求めて放浪している」ということになるのではないかと思う。(17ページ)


 僕はこのような生活をとりあえず「住み移り」という風に定義しているわけだが、要するに早い話が引越しなのだ。だから僕の略歴にはおそらく「趣味は定期的な引越し」と書かれるべきなのだ。その方がずっと僕という人間についての事実を伝えているんじゃないかという気がする。(22ページ)


 仕事の手を休めてそのような風景をのんびりと眺めているうちに、自分はおそらくこの風景をいつか、何年か先に、ふと思い出すことになるんだろうなと僕は予感する。
 そしてその(この)風景を思い出しながら、こう考えるかもしれない。
「ああ、僕はあそこに三年間住んだんだな。あそこにはそのときの僕の生活があり、僕の人生の確実な一部があったんだな」と。(48ページ)


 たぶんそれが僕らの中にある「使いみちのない風景」の意味なのだと思う。
 それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景に――おそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に――結びついているのだ。(96ページ)


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 夕方、近くのシネマコンプレックスで『プロフェシー』を観に行く。予言と題された、リチャード・ギア主演の映画。
 リチャード・ギアがラブ・コメディー以外の作品に出ているとどうしてか珍しいような気がしてしまうのは、世代的に『プリティ・ウーマン』のイメージが強いからだろうか? と思う。

 これは、死の直前にあるものを見てしまった妻を失った敏腕新聞記者が、見えざる力によってポイントプレザントという小さな町へ運ばれ、そこで妻が見たのと同じ存在の影を感じ、その関連性について調べはじめていく物語だ。その存在――蛾男(モスマン)と呼ばれている――は、各地で災厄の前にまるでこれから起こる災厄を引き起こしているかのように、あるいはそれについて警告を発するようにその土地の多くの人の前に現れる(それは姿や光や声など、人によって現れ方は違う)。主人公は様々な目撃者たちの話を統合し、少しずつ核心に近付いていく。いったい、ポイントプレザントで何が起こるのだろうか?

 冒頭から、謎めいたイメージの集積や、ある種の伏線が多数張り巡らされている映画。いくつかの謎は見終わった後も解明されないし、暗示を示すだけに留まるものも少なくない。ステレオタイプに収斂させ、まとめあげ解答を提示することのできない現実の不可解な現象のように、謎は謎として残るのだ。けれども、それが逆にリアルさを高めているし、超常現象的な題材を扱っているのに、人物造詣もリアルで、そこにしっかりとしたドラマが生まれているように思う。
 与えられた条件の中で人は選択をし、行動を起こしていく。影響力を行使することができるのは、その圧倒的な出来事のなかのほんの一部の部分でしかない。けれども、その行動はその当人にとっては非常に大きな意味を持つものであるのだ――そういう部分がよく出ていたと思う。リチャード・ギアは常に悲哀にくれた過去の悲しみに囚われている人物(ジョン・クライン)を見事に演じているし、一緒に不可解な現象の調査に乗り出す女性警察官コニー(ローラ・リネイ)も自らも巻き込まれながら現実に踏みとどまり、ジョンに手を差し伸べていく役割を巧みに行っている。他にも、演技巧者たちに支えられ、一見陳腐な題材になってしまうような物語を、暗示的なテンションの持続するものへと導くことができていると思う。

 これが実話を元にした物語であるということに思わず驚いてしまう。その真偽はともかく(あると断言することもできないけれど、そういうことがないともやっぱり断言できない)、また主人公の存在は創作だけれど、ポイントプレザントという町であることが起こり、その前に多数の人々の前に蛾男(モスマン)が様々な形で現れたという証言があるというのは事実なのだそうだ。また、その蛾男のような存在はチェルノブイリの事故の前にも、メキシコの大地震の前にも発見されているのだという。
 そういう説明を読み、映画を見ると、知りうることのできない世界の余白について考えてしまう。科学などが発達し、様々なものを認識することができるようになっても、まだまだそういう照明から逃れられている不可解なことは多いのだろうなと思う。もちろん、それはもしかしたら錯覚や幻覚なのかもしれないし、ある意味では紛れもない現実なのかもしれない。
 けれども、そういうものをまったく否定することもできないし、たとえそれが錯覚(たとえば柳の木が幽霊に見えてしまうような)であったとしても、そう見えてしまうことにその人にとっての意味のようなものはあると思う。

 見終わった後も、不思議な余韻の残る映画。


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 お知らせ

 帰り道はかなり寒くて、もう薄手のコートのようなものが必要なほどです。


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