Sun Set Days
DiaryINDEX|past|will
2002年10月27日(日) |
サービス+『読書力』 |
今日は歯医者に行き髪を切った後で、時計の電池を交換しに行く。お気に入りの時計(2年半くらい前に買ったALBAの「WIRED」の初代。11000円くらいのやつ)のデジタルが表示されなくなってしまったのだ。 部屋の近くの商店街にある小さな時計屋に出したのだけれど、分解してもらって、そのサイズの電池がないことがわかってすぐの交換は諦める。電話番号を伝えて、一度帰る。 すると午後になって連絡があり、なんと交換が終了とのこと。驚いて店に行くと、その陽気なおじさん(分解している途中も、ずっと天気の話とかいろいろ話しかけてきてくれていた)が、問屋までスクーターを飛ばして電池を取りに行ったのだと教えてくれた。それで、電池の交換が終了したのだ。 「ありがとうございます」と言いながら、そのフットワークのよさに驚いていた(その間の店はどうしてたの?)。 僕は流通業に勤めているのでそういう商店街にあるような店舗とは良くも悪くもライバル関係にあると言える。商業施設や大型店舗が、そういった各地の商店街の地盤沈下を招いているということは、いたるところで起こっていることだということも実際に目で見てわかっている。けれども、そういうサービスを失い続けていくのだとしたら、大型店舗は安くて商品が豊富だけれどそれだけの店で終わってしまうかもしれない。そしてそういった店舗は最終的にはお客の支持を失ってしまうかもしれない。考えさせられた。ある程度規模の大きくなった小売業の場合は、もし在庫がなければ取り寄せ対応になることは間違いない。スクーターで自ら問屋に商品やパーツを取りに行ったりする社員は(たぶん)いないだろう。もちろん、大型店舗であれば電池の在庫がないということは起こり得ないかもしれない。けれども、システムや効率を追求することと、お客のために行動することと、その線引きのバランスはやっぱりなかなかに難しいことだと、今回のことであらためて思わされた。
よく様々な企業が「お客様の立場に立って」と言う。僕の勤めている会社だってそう言っている。けれども、一番手っ取り早くその気持ちがわかるようになるためには、自分がお客になって様々なお店を利用することなのだろうなと思う。そして、ただ買い物をするのではなく、サービスであれ、商品であれ、陳列であれ、システムであれ、そういった様々なものを見比べて、よいところを学び、問題点を発見し、問題点についてはどうしたらよくなるのかと考え続けること。そしてよくなったものを自店に取り入れることができないかどうかを考えてみること。言うのは簡単。けれども、そういう行動の繰り返しは、絶対に必要だと思う。 世界最大の小売業であるウォルマートの創業者サム・ウォルトンは、自分がウォルマートのような企業を一代で創り上げたことは、他のどんな経営者よりも自社や他社の店舗を見続けたからだとかつて話していたのだそうだ。その見続けたというのは、もちろんそういう比較する見方なのだろうと思う。それはいいとこどりのようなものなのかもしれない。けれども、それが悪いことだなんて誰に言えるのだろう? 大型店舗でありながら、商店街にある店舗のようなフレンドリーさがあること。もちろんそれはきっと難しいことだ。けれども、それは個々人の意識と、企業のシステム双方のバランスによってある程度までは実現することができると思う。人間だから(いくらプロだとしても)機嫌のいいときもそうでないときもある。キャパシティだってある。企業のオペレーション・システムが社員やパート・アルバイトさんのマン・パワーに過度に頼るようなものであり続けるのなら、きっとフレンドリーなサービスは絵に描いた餅になってしまうだろう。過度なマン・パワーを要求されるルーチン業務に加え、スマイルなどと言われてもできないときだってあるのだ。けれども、システムが、仕組みが向上していくことによって、ある程度マン・パワーに頼る部分が軽減され、余裕が生まれるようになる。そうしたらサービスも現実的に可能なものとなってくる。笑顔だってより多くの時間向けることができるようになる。だって、ものすごく混んでいるファストフードの店員と、比較的空いているファストフード店の店員を見比べたら、明らかに後者の方がギスギスしていないことが多いし。 いずれにしても、働いている人間のモチベーションの高さと、効率的なオペレーション・システムの両輪がうまく回ることによって、その店舗は、会社は前に進むことができるのだろうと思う。片方だけがより多く回っても、片輪だけが回る自動車が前進することができないように、同じところをぐるぐると回り続けることだろう。 難しい……。 けれども、今日の時計屋のおじさんには勉強させてもらった。
それから、電池交換の終わった時計をはめて散歩に出かけた。気分がよかったので普段あまり行かない方向に行く。 部屋からちょっと長く歩いたところにいままで入ったことのないおそば屋さんがあるのを見つけて、かつて近くに住んでいた同僚がおいしいと話していた店だということを思い出して入ってみることにする。そのときは午後3時過ぎだったのだけれど、まだお昼を食べていなかったのだ。それがあたり! 天丼セット(ざるそばと天丼)を注文したのだけれど、両方ともかなりおいしかった。いままで入ったことがなかったのはもったいない……と思った。美味しい店だけあって、周囲には家しかないのに、そんな時間でも店内は結構混み合っていた。駐車場に結構車が停まっていたから、わざわざ食べに来ている人が多いのかもしれない。
天気がよくて、散歩日和だった。周囲の木々はまだ色を変えていなかったけれど(山合いならもう変わっているのかもしれない)、それでも空が高く感じられる秋の終わりの日曜日だった。
―――――――――
『読書力』読了。齋藤孝著。岩波新書。
3色ボールペンの本を書いた著者が書いた読書力復権を謳った新書。読書を習慣化するべき「技」として捉え、その蓄積とそれによってもたらされる向学心のようなものなどが、日本の地力であると説いている。そして、読書が自己形成にとってどれだけ重要なのかを述べ、その上達のプロセスを明らかにし、果てはコミュニケーション力の基礎として読書が果たす役割にまで言及している。巻末には「大人の読書(著者の呼び方で言うのなら「多少とも精神の緊張を伴う読書」)」に移行するための文庫百タイトルまで挙げられている。 自らを向上させるための読書の素晴らしさ、自己形成への有益さを熱っぽく(これはちょっと新書としては驚いてしまうくらいに)語っているのだ。 読んでいて熱い人だなと思ったし、けれどもそれは視野が広くかつ熱いといった風なので、説得力があった。
3色ボールペンを使った読み方も各所で使っていて、それは個人的にはたぶんやらないのだけれど、それでも本書で書かれている内容にはなるほど、と思わされることが多かった。ちなみに、読書力があるというのは、「多少とも精神の緊張を伴う読書」を文庫百冊、新書五十冊読んでいることなのだそうだ。
なるほどと思った点の中から、いくつか引用。
私がひどく怒りを覚えるのは、読書をたっぷりとしてきた人間が、読書など別に絶対にしなければいけないものでもない、などと言うのを聞いたときだ。こうした無責任な物言いには、腸が煮えくり返る。ましてや、本でそのような主張が述べられているのを見ると、なおさら腹が立つ。自分自身が本を書けるまでになったプロセスをまったく省みないで、易きにに流れそうな者に「読書はしなくてもいいんだ」という変な安心感を与える輩の欺瞞性に怒りを覚える。 本は読んでも読まなくてもいいというものではない。読まなければいけないものだ。こう断言したい。(5ページ)
私は本を読むときに、その著者が自分ひとりに向かって直接語りかけてくれているように感じながら読むことにしている。高い才能を持った人間が、大変な努力をして勉強をし、ようやく到達した認識を、二人きりで自分に丁寧に話してくれるのだ。(……)もちろん書かれた本であるから、本当のライブのような、話し手の身体から発する雰囲気や親しさというものは十全ではないかもしれない。しかし、本当によい本は、書き言葉の中にその人の息づかいが込められている。感情の起伏も文章に表れる。気概や志は、むしろ凝縮して炸裂している。(15ページ)
唯一絶対の価値を持つ本があれば、場合によってはその本一冊を読めばよいことになる。しかし、そういったthe Bookと言われる特別な本がないとするならば、できるだけ多くの本つまりBooksから、価値観や倫理観を吸収する必要がある。(……)日本では、大量の読書が、いわば宗教による倫理教育の代わりをなしていたと言えるのではないだろうか。倫理観や志は、文化や経済の大元である。素晴らしいものをつくりたい、世の中をよくしたいといった強い思いが、文化や経済活動を活性化させる。(46-47ページ)
インターネットの隆盛に伴って、すべてを情報として見る見方がいっそう進むであろう。素早く自分に必要な情報を切り取り、総合する力は、これからの社会には不可欠な力である。しかし、何かに使うために断片的な情報を処理し総合するというだけでは、人間性は十分には培われえない。 人間の総合的な成長は、優れた人間との対話を通じて育まれる。身の回りに優れた人がいるとは限らない。しかし、本ならば、現在生きていない人でも、優れた人との話を聞くことができる。優れた人との出会いが、向上心を刺激し、人間性を高める。(58-59ページ)
その日常の話し言葉だけで思考しようとすれば、どうしても思考自体が単純になってしまう。表現する言葉が単純であれば、思考の内容も単純になっていってしまう。逆にいろいろな言葉を知っていることによって、感情や思考自体が複雑で緻密なものになっていく。これが書き言葉の効用である。書き言葉には、話し言葉にはないヴァリエーションがある。(66ページ)
自分の経験と著者の経験、自分の脳と著者の脳とが混じり合ってしまう感覚。 これが、読書の醍醐味だ。これは自分を見失うということではない。一度自分と他者との間に本質的な事柄を共有するというのが、アイデンティティ形成の重要なポイントだ。自分ひとりに閉じて内部で循環するだけでは、アイデンティティは形成されない。他者と本質的な部分を共有しつつ、自己の一貫性をもつ。これがアイデンティティ形成のコツだ。(87ページ)
読書は、完全に自分と一致した人の意見を聞くためのものというよりは、「摩擦を力に変える」ことを練習するための行為だ。自分とは違う意見も溜めておくことができる。そうした容量の大きさが身についてくると、懐が深くパワーのある知性が鍛えられていく。(105ページ)
パリのバルザックの家を訪ねたことがある。(……)その中で目を引いたのは、壁一面に張り巡らされた、バルザックの人間喜劇の登場人物の相関図だ。それはバルザック自身が作ったものではなく、後年、バルザックの研究者によって作られたものであったようだが、信じられないほどの数の人間の名前が、線で結びつけられて壁を埋め尽くしている光景は迫力があった。一人の人間がこれほど多くのキャラクターをつくり、それぞれを関係させ、一つの世界を構成し得たということを、一目で見ることができ、感銘を受けた。(179ページ)
―――――――――
お知らせ
『Always on my mind』の3をアップしました。
|