Sun Set Days
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2002年10月26日(土) |
『スズメバチ』+『マーティン・ドレスラーの夢』 |
洗濯をしようと思って7時に起きたら、小雨が降っていた。 それで、洗濯はあきらめて朝食をとることにする。カーテンを開けて、窓も開けて、網戸越しにぼんやりとベランダの外の風景を見ながら、ゆっくりと時間をかけてパンやコーヒーを食べる。僕の住んでいる部屋は2階だし近くのマンションや家に遮られてそれほど見栄えのする光景が見えるわけではない。さらに、各部屋にはベランダがあって、上の階のベランダの影のせいで周囲はより暗く見えさえする。 けれども、影があるせいなのか、目を細めると雨の細やかな線がちゃんと見える。意識しないとあんまりよく見えない。だから一瞬雨が降っていないのかな? と思う。 けれど雨はちゃんと降っている。注意しなければよく見えないくらいの小雨が。
それから、パソコンを立ち上げていつも見るライブカメラ(原生花園)のページを見ると、雨は降っていなくてなんとなく不思議な気持ちになる。もちろん、頭ではわかっているのだけれど、それでも窓の外の雨と道東の小さな花園の天気が異なっていることが、どうしてかおかしいような気がしてしまうのだ。 そう言えば、まだずっと小さかった頃は雨が降っているときには世界中が雨なのだと思っていたような気がするし、世界中は同じ時間に朝を迎え、夜になるのだとも思っていたような気がする。だから、街によって天気が違うことを知ったことは、当時の自分にとってはきっとものすごいカルチャーショックだったんじゃないかと思う。それなのに、他にもそういう驚きはたくさんあったはずなのに、いまではもうどんなふうに、いつ驚いたのかということさえ忘れてしまっている。そういうものだと言ってしまえば話はそれで終わるのだけれど、そういうのって何だか不毛な代償を払っているような気になる。そういうカルチャーショックの体験や記憶を忘れる代わりに、自分が得たものが何なのかよくわからなくなるのだ。まあ、考えてみれば本当にいろいろなことをよくわからないままでいるのだけれど。
窓を開けているせいで、部屋の中が随分と寒くなってしまっていたので、それから少ししてから窓を閉めた。本を読み、いくつかのホームページを覗く。休日の午前中の過し方の、個人的な王道パターン。
11時少し前に、慌てて駅に向かう。あんまりのんびりしていたら映画の上映時間に間に合わなくなってしまうからだ。 今日は『スズメバチ』という映画を観に行くことにしていたのだけれど、いつも行くシネマコンプレックスでは上映をしていなくて、渋谷か関内のどちらにしようかと迷う(どちらも、初回上映が11時45分からのスタートだったのだ)。駅までの道でiモードを使って渋谷と関内のどちらに早く着くことができるのかを検索して、関内なら上映に間に合うことがわかり、横浜線に乗り込む。 iモードの画面メモに残した検索結果では、関内に到着するのは11時37分。ホームページからプリントアウトしておいた映画館の場所からすると、たぶん急いでギリギリというところだ。
地図をプリントアウトしていたおかげで、無事上映時間に間に合うことができた。横浜ニューテアトル。ニューという名前なのだけれど随分とレトロな映画館で、地下への階段を下りてチケットを購入して劇場の中に入ると、10人ちょっとしかいなかった。初日なのに……しかも、ほとんどが1人で観に来ている渋い感じの中年以降の男性ばかり。確かに渋い映画だけに、そういうのにも納得はできるのだけれど。 僕もそういう渋い面々の中に腰を下ろす。けれども、きっと渋くは見られないよな……ともちょっとだけ思いながら。
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映画は、「新生フランス映画界がついに本格的なフレンチ・アクション映画を生み出した!」と宣伝されているもの。
アルバニア系マフィアのボスを護送中の特殊警察部隊が、彼を救出するために現れたマフィアの重装備チームに襲撃され、なんとか工業地帯の中にある倉庫へと逃れる。そしてその倉庫の警備を通じて救援を求めようとするのだが、偶然その倉庫には出荷前のノートパソコンを大量に奪おうとしていた窃盗団がおり、彼らが警備員を監禁し、また外部への連絡を絶つために携帯電話のアンテナなどを破壊していた後だったのだ。
倉庫はマフィアの軍隊とも見まごう部隊に完全に包囲され、連絡手段はすべて失われてしまう。特殊警察部隊のリーダーであり一児の母でもあるラボリ中尉は、包囲網をかいくぐり生き残るという共通の目的のために、窃盗団である彼らと協力をするようになる。また、監禁されていた元消防士の警備員のルイも仲間に加わり、機転の利いた行動でメンバーを助けていく。
スズメバチというタイトル通り、包囲された倉庫の外から尋常ではない数の銃弾が打ち込まれる。壁には蜂の巣のように細かな穴が無数に空き、マフィアの兵士たちは何度撃退しても繰り返し攻撃を仕掛けてくる。助けを呼ぶこともできない極限状況の中で、果たして彼らは助かるのか……
といったようなストーリー。その、特殊警察と窃盗団と、巻き込まれてしまった警備員が生き残るために協力するというシチュエーションに興味があり、それで観てみたのだ。 アクションや迫力はもちろんハリウッド製の方が優れているのかもしれないけれど、それでも充分遜色ないレベルにあると思ったし、リュック・ベッソンであれ今作の監督であるフローラン=エミリオ・シリであれ、アメリカ映画を自分なりに組み込んで吸収し作品を製作するフランス人はこれからも増えていくのだろうなと思う。もちろん、日本でも他の国でもそうだとは思うけれど。
この映画の場合は、最初はゆったりとしたペースで、主要な面々が倉庫に集結するまでを描いていく。まるで嵐の前の静けさというような感じだ。特殊警察側の裏側が描かれ、窃盗団の緊張が描かれ、警備員ルイの日常が描かれる。けれども、特殊警察部隊の装甲車が襲撃されるところから、物語はそのスピードを急激に早めていく。そして、部隊が倉庫に移り彼らが終結せざるを得なくなった地点から、様々な状況を背負った登場人物たちは、そういったものを脱ぎ捨ててとにかく生き残るために戦う他はなくなる。けれども、その前のシーンでの説明的な「ため」があるために、その極限状況の中での行動に、それぞれの人物の本質のようなものが浮き彫りにされていくのを見ることができるようになるのだ。
怯えていた若者は守る者のために弱さを捨てるし、反りの合わなかった2人は近付くようになる。また窮地に陥ったときに自分を失ってしまう者がいて、冷静に自分たちが生き残るための方法を模索する者がいる。そういった追い詰められた状況であるからこそ見えてくる姿が、この映画ではしっかりと描かれていたと思う。
声を出して誰にでもおすすめというような映画ではないけれど、観てよかった。
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映画を観終わった後、ずっと昔に巨人―横浜戦を観て以来関内で降りたことがないことを思い出し、関内の街を少し歩く。歩行者通路のみの商店街は歩いていて気楽で楽しい。有隣堂はやたらと混んでいた。そしてケンタッキーやスターバックスコーヒーなんかがあった。 それでふと思ったのだけれど、ある程度都市に住んでいる人はでかけているときにちょっとしたゲームをしたらおもしろいかもしれない。「ファストフード&カフェゲーム」。1人でも誰かと一緒でもいいのだけれど、街に出かけるときに1つチェーンを決めて、目的地の駅から戻ってくるまでの間に、いくつくらいそのチェーンの店があるのかどうかをかけるのだ。たとえば、マクドナルドに決めて、それが4店舗と決めて、歩いている間、買い物をしている間に見つけたらカウントしていく。そして、最後帰るための駅まで来たときにそれ以上あったら負け。もし2人とかでそのゲームをするのであれば、買ったほうが負けたほうに駅の近くのカフェやファストフードで、コーヒーでもおごればいいわけだし。そういうちょっとしたゲーム。
関内から帰りの電車に乗る。桜木町で横浜線の電車に乗り換え。すると、隣にアジア系の男性が座り、「この電車は新横浜に停まりますか?」とカタコトの日本語で尋ねられる。「停まりますよ」「3駅目ですか?」その電車は快速だったので正確に答えようと思って扉の上にある路線図を確認してから、「3駅です」と指を3本立てて答える。元々本を読んでいるときに話しかけられたのでそのまま続きを読んでいたのだけれど、新横浜で降りるときに、その人は微笑んでくれてから降りていった。なんとなく穏やかな気持ちになる。
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部屋に帰ってきてから、本を読み、いくつかのホームページを巡り、会社の人と電話で話す。その間、基本的にはいろんな音楽がかかっていた。Charaの『初恋』、エブリシング・バット・ザ・ガール、サヴェイジ・ガーデン、タミア、矢井田瞳、それからK-Ci&JoJo。
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『マーティン・ドレスラーの夢』読了。スティーブン・ミルハウザー著。柴田元幸訳。白水社。
※ネタバレあり。
帯にはこう書かれている。
摩天楼がつぎつぎい建ちはじめた二十世紀初頭のニューヨーク。ひとりの若者が壮大な夢を胸に、成功の階段を昇っていった…… ピュリツァー賞受賞の傑作長篇小説
ピュリツァー賞(ジャーナリズムのアカデミー賞のようなもの? ジャーナリズム、文学、音楽などの各分野で該当作が選ばれる)は『停電の夜に』も受賞しており、結構期待して読んだのだけれど、帯にある「成功の階段を昇っていった……」の「……」の部分があのような形になっていくのだとは思わなかった。もちろん、その「……」は成功への階段を昇っていった先には実は……ということが予見されるものではあるのだけれど、それが世俗的な失敗というよりはむしろ、マーティン・ドレスラーが夢想の世界と現実の世界との境界線を曖昧にしていくというものだったからだ。
前半は、当時のアメリカの様子を生々しく描きながら、小さな葉巻商の息子として生まれたマーティンが持ち前の才気と行動力を示してホテルのベルボーイから支配人の秘書へと出世していく様子が描かれ、その後独立し自らカフェのチェーンを展開するなど、立身出世物語の色彩が強い。物語は、ときどき幻想的なイメージの集積のようなマーティンの夢が語られることがあっても、基本的にはリアルな世界の中で進行していく。 また、その過程で将来の妻となる姉と仕事仲間となる妹、そしてその母親の3人とも知り合うようになる。 しかし、カフェチェーンを売り払い、その資金で経営が傾きかけていたかつて自分が働いていたホテルを買収する頃から、物語は少しずつ単なる立身出世物ではない方向へ軸足を移していく。 マーティンはそのホテルを足がかりに、徐々に規模のより大きなホテルを建造していくことになる。目指すのは自らの夢や幻想を投影したような、その建物だけでひとつの完結した世界ででもあるかのような巨大なホテルである。高速エレベーターの発明も相まって、新しいホテルは天高くそびえ、そして地下深くに広がっていく。そして、ホテルの高さが、あるいは地下の深さがより大きなものになっていくのに合わせるかのように、物語は同様に現実からも離れていくのだ。たとえば、最初の大きなホテル「ザ・ドレスラー」について語られている部分に、このような箇所がある。
都市生活者はみな二重の欲求を抱いている、というのがハーウィントンの信念だった。すなわち、物事の只中にいたいという欲求と、それに劣らず強い、物事のうとましい只中から逃れて、どこか静かな、木陰のある小径があって小川のせせらぐ、ごく漠然と思い描かれた花の上からマルハナバチの羽音が聞こえる田舎へ逃れたいという正反対の欲求。ザ・ドレスラーはこの両方の欲求に応えることができる。長期滞在を考えている人々には公園や川を提供し、絵に描いたような田園の隠遁地のイメージを差し出せる一方、都市が否応なしに北上していく流れの先端に立ち会っているという感覚も売り物にできる。(199ページ)
ここに書かれているように、マーティンの作るホテルは、相反し矛盾する概念を内包するものだ。「現代的な鉄骨のビルを、たっぷり装飾を施した石造りの壁が包んで、お城や宮殿の夢を喚び起こす。」ようなものなのである。そして、そのようなホテルは最新鋭の設備の中にいたいと思うのと同時に古きよき価値の確立されたものにも触れていたい人々の関心や注目を集め、当然のごとく賑わう。ホテルは大成功となり、世間的な意味でいえばマーティンは破格の成功者ということになる。 けれども、マーティンは飽くなき探求者ででもあるように、より大きく、まるで世界そのものといったホテルの建造へとかき立てられていくのだ。
そして、最終的にマーティンが作ることになるホテルは、その傾向を徹底した想像を絶するものになる。グランド・コズモという名前のそのホテルは、地上30階、地下13階もの大きさを示すのだ。しかも、そのホテルの真の凄さは単なる大きさではない。そこには様々なものがある。豪華な部屋があり、建物の中であるというのに鬱蒼と木の茂る田園があり、本物の砂を敷いた湖畔がある。また、機械仕掛けのナイチンゲールが木の枝でさえずり、二十四時間詩が暗誦される場があり、劇場があり、宿泊者のためだけの百貨店まである(グランド・コズモの内部の描写にはかなりの分量が割かれており、それ自体がある意味盲執的なものだ)。 本文では、こう書かれている。
すなわち、都市を不要にする場としてのグランド・コズモ。それ自体都市であれ、人々が都市を逃れてやってくる場であれ、グランド・コズモは完結し、自己充足した世界なのであって、それに比べれば現実の都市など、単に劣っているのみならず、余計でもあるのだ。(250ページ)
しかし、それ自体都市であるとさえ言えたそのグランド・コズモは、世間の関心を惹きはしたが事業としては失敗に終わる。そのあまりの完璧さが人々と相容れないところにまで来てしまっていたのだ。時代の先端を走りすぎていたということができるかもしれないし、マーティンの自らの内なる声に従い続けてしまった結果でもあるのかもしれない。 これは、ある意味予測された失敗であったと考えられる。現に、マーティンたちは、生活者が二重の要求を抱いているということを正確に認識していた。そして結局のところ、グランド・コズモの失敗も同じものによるのだ。つまり、生活者=人々は、完璧なものを求めるのと同時に不完全なものを求めるのである。根本的に矛盾する性質を持っており、だからこそそれ自体で都市とさえなりえた完璧な場所であるグランド・コズモは、人々の注目こそ惹いたけれども、結果としては本当の意味で人を掴むことができずに失敗に終わるのである。それ以前のホテルが成功していたのは、完璧さを目指しながらもまだそこには到達していない、つまりかなり高いレベルで完璧さを維持しながらも不完全な部分が隙間としてそこにあったということによるのではないかと思うのだ。
後半部分のどこか幻想的な描写群も想像力を刺激されるという意味で魅力的ではあったのだけれど、個人的にはマーティンが現実側に足を置いている中盤くらいまでの方が魅力的ではあった。もちろん、様々な事業を手がけていく中で、マーティンは自分が本当に目指したいものを少しずつ理解し、結果としてそれがどこか夢想や妄想のようなものに近くなっていくことも、成功者が成功するのは自らの内なるビジョンにあくまでも忠実に行動するが故であるという意味で、リアルであると言えるのかもしれないけれど。
一人の人物の中にある、何色もの糸が絡み合って丸い塊になっているような精神を、木目細やかに丁寧に表現したような作品だった。
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お知らせ
のんびりした休日でした。
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