Sun Set Days
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2002年10月08日(火) 5人のお父さん

 あるところに、5人のお父さんがいました。
 5人のお父さんにはかけがえのないたった1人の息子がいて、それはとてもとても心優しいこどもでした。
 5人のお父さんたちは、息子が眠っている夜の深まる時間に、息子の教育方針について議論をします。
 それは毎日のお約束であり、習慣であり、恒例行事です。
 ぺなんとれーす中にあなたのお父さんがぷろ野球にゅーすを見ないと1日が終わったような気がしないのと同じように、5人のお父さんたちは息子の教育方針について言葉を交わさないと1日が終わったような気がしないのです。もう何年も――息子は5歳でしたが――まだ息子が言葉もわからず、よちよち歩きしかできなかった頃から、ずっとそうしてきたのでした。

 5人のお父さんたちのなかでは、息子はわるい竜を倒す英雄であり、わーるどくらすのさっかー選手であり、またあるときには偉大なる発明をする研究者で、さらに別の夜には誰もが心を掴まれてしまうような美しい映像を撮る映画監督になります。また、別の夜にはたいした出世はしないけれど家族思いの優しい父親になり、世界中の子供たちを喜ばせる絵を描く画家になり、1代で世界中に支社を持つような会社を興す事業家にもなります。5人のお父さんたちのなかでは、5歳の子供には本当にたくさんの可能性があるのです。たとえば、あなたが散歩に出て選ぶことのできる路地が無数にあるように。

 学者肌のお父さんは、「かわいい息子には早い内から勉強をさせなくてはいけないよ」と諭します。
 運動神経抜群のお父さんは、「いとしい息子に体を鍛えることの大切さを教え込まないといけない」と主張します。
 自在にぴあのを弾くことのできるお父さんは、「きような息子に音楽の素晴らしさを伝えていくべきだね」と歌います。
 いつも女の人に囲まれているお父さんは、「りりしい息子に恋に身を焦がすことを覚えさせるべきだよ」と囁きます。
 やさしいお父さんは、「他のお父さんたちの言うことももっともなことだ」と納得します。

 それから、また喧々諤々の議論がはじまります。
 議論は深夜まで及び、お月様が眠たくなってゆっくりと中空から降りはじめる頃まで続きます。

「そうだねえ」としばらくするとやさしいお父さんが言います。それはいつもやさしいお父さんの役目です。やさしいお父さんは他の4人のお父さんが自分の主張を繰り返すのに疲れてきたのを見て、いつもそう話をまとめるのです。

「今日はもうこれくらいにして、私たちのかわいい息子の寝顔でも見に行こうじゃないか」

「そうだそうだ」と4人のお父さんたちも賛成します。息子の将来を案ずるのは父親の役目であり義務だけれど、今夜はもう随分と遅い。だから息子の寝顔を見て今日はひとまず眠りにつこう。5人のお父さんたちはそういう心持になっています。

 5人のお父さんは息子の部屋の扉をそうっと、しゃぼん玉を割らずに息で吹くみたいに柔らかくあけると、ゆっくりと小さなベッドに眠っている小さな息子を覗き込みます。5人のお父さんの影は、シーツの上にでこぼこの塀のように映っています。

(かわいいねえ)
(最高だよ)
(ああ、今日もいい一日だった)
(そうだねえ、本当にいい一日だった)
(明日も、間違いなくいい一日になるに違いないよ)

 5人のお父さんは小声でそう囁きます。森の小人にしか聞き取ることのできないくらい小さな声で。

 子供は、ゆっくりと微かな寝息を立てています。
 森の動物たちと遊ぶ夢でも見ているのかもしれません。
 鮭と一緒に大海を大冒険して生まれた川に戻ってくる夢を見ているのかもしれません。
 合体ロボットを操縦して、悪い敵と戦っている夢を見ているのかもしれません。
 眠っている息子は、そよかぜに揺れている小さなつぼみのように、口をすうすうすぼめています。

 5人のお父さんたちは、後ろ髪を引かれる気持ちを抱きながら、小さな息子の部屋から外に出ます。それから、羽毛も揺れないくらいゆっくりと扉を閉めます。息子の部屋に伸びていた一筋の明かりの線がゆっくりと細く途切れていきます。

 廊下を歩いていく5人のお父さんの影は、進むにつれてひとつにまとまっていきます。

 5人のお父さんは、そうして眠りにつくのです。


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 次回、「5人のお父さん、ピクニックに行くの巻」はいつになることやら。


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 今日は、昨日とは逆に早く部屋に帰ってくる。
 クリーニング屋がぎりぎりまだ開いている時間で、急いでクリーニングに出したいものを持っていく。僕の住んでいるマンションの向かいにはチェーンのクリーニング屋があって、僕はそこによく行っているのだ。
 そこのクリーニング屋は、多くのクリーニング屋がそうであるように夫婦でやっているのだけれど、僕は結構常連でいろいろと話す。
 今日も気がつくと、おばさんと15分くらい話していた。閉店間際で、お客さんが他に来なかったということもあるのだけれど、そのおばさんの娘たちや孫たちの話をいろいろと聞いていたのだ(その娘さんがいまの旦那さんと出会ったときのエピソードはおもしろかった!)。
 一人暮らしをしていると、いわゆる家族的なものというか、ある種の安定した暮らしや歳月を感じさせる話(いまの大人がまだ小さかったり若かったりする頃の)を耳にする機会がぐっと減ってしまう。正直な話、会社とコンビニやスーパーと部屋を往復して数日が終わってしまったということだってありえない話ではないわけだし。
 だから、そういう日々の中で、そういう「家族」のようなものが介入してくるようなときというのは、新鮮でいいよなと思えてしまったりするときでもある。自分にもこういう家族が(遠い距離はあるにしても)いて、自分の昔のことを覚えてくれていたりするのだよなと。
 もちろん、それは家族であることが多いけれど、誰かが、自分の昔のことを覚えていてくれるのってただ単純に嬉しいことだ。確かに、過去の記憶なんてものはそれが過去というだけあって都合の悪いことは忘れていたりヴェールをかけていたりするものではあるのだけれど、それでもそういったものでも、実際にかつて同じ場所にいて、そのときの記憶を共有することができているというのは安心できるというか、穏やかな気持ちになろうと思えばなることができる。

 いいこともあんまりそうではないことも、たくさんの時間を過してきた相手との間には、ねじれてからまってそして強くなったロープのような安定感のようなものがあるのだろうなと、最近はわりとそういうことを思う。

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 お知らせ

『マイノリティ・リポート』はかなり楽しみなのです。


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