Sun Set Days
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2002年09月29日(日) 長い散歩+『南の島の星の砂』

 木曜日、28歳の誕生日には、ちょっと長い散歩をしていた。
 21時過ぎに部屋に帰ってきて、友人と1時間くらい電話をして、22時半に部屋を出た。
 最初は、マンションの近くをちょっと歩きながら1年の目標を決めよう、くらいしか思っていなかったのだけれど、歩き始めると意外と、というか思いがけず長い距離を歩くことになった。
 それは、別に今年の目標が決まらなかったからではなく、いままで行ったことのない方面に行ってみようと思ったからだった。
 歩くのは好きなので、住んでいる場所の近くは大体歩いているのだけれど、まだ行ったことがない方面があった。
 それは新興住宅地が続く方面で(Photoの#7近辺)、ある程度までは家も電灯もあるのだけれど、その先は道しか続いてなく、その先へはまだ歩いてみたことがなかったのだ。
 それで、せっかくだからとそちらに行ってみることにした。頭の中に入っている大まかな地図では、その道はちょっと歩くことになるだろうけれど、歩けば隣の駅の方と合流しているはずでもあったので。

 歩き始めると、新興住宅地特有の真新しい家並みと、統一された街灯が続き、そのオレンジ色の明かりが淡くぼんやりと周囲を照らしていた。道がどこかと続いていることを証明するかのように、前方からも結構車が走ってくる。ただ、人はほとんど歩いてこない。つまり、先には家がないからだ。僕はいつものように、小さなカバン(散歩用バック。本とノートとペンとデジタルカメラと携帯電話が入っている。これだけあると、散歩の途中でコーヒーとかを飲もうということになっても退屈しないし、写真も撮ることができる)を斜めがけして歩いていたのだけれど、歩いている間全然他の人とすれ違わなかった。

 そして街灯は途中でその間隔を広げ、周囲の暗さはさらに深まる。
 一瞬、やっぱり引き返そうかなとちょっとだけ思う。そして、普段の散歩なら引き返していたと思う。最近は物騒だし、自分だけはそういうある種の暴力性と無縁でいられるなんて根拠もなく楽観的には思ってはいないし。ただ、そのときは考えてから、そのまま歩いてみることにした。誕生日って、行ったことのない道路を歩いて、それがどこに通じているのかを体感してみるということをするには、ふさわしい日のように思えたのだ。

 客観的にみるのなら、そういう行動はやっぱり少し変わっているのだろうなと思う。
 でもまあ、暗くてちょっと怖いけれども、まあとにかく行ってみようとてくてく歩いていた。

 すると、不思議なことに暗い前方から音楽が聴こえてきたのだ。繰り返される単調なメロディーが。
 おいおい、と少しだけ思った。
 最初は、誰かが途中に車を停めていて、窓を開け放して音楽を聴いているのかと思った。
 あるいは、カーブを曲がった先に工場や自動車修理場があって、近くに民家がないのをいいことに、その夜に働いている従業員たちが結構大きな音楽をかけながら仕事しているのかもしれないとも思った。もちろん、近付いていくにつれて音量は大きくなっていくし、それがインストルメンタルだということが判別できるようになってくる。そのときには引き返すには歩きすぎていたし、せっかくだからと、そのままカーブを曲がった。

 なんと、そこには道路脇でバンドの練習をしている4人組がいたのだ。
 工場も自動車修理場もなくて、カーブを曲がってもただ同じように道路だけがある。そして、その途中に車を停めて、歩道のちょっと奥まったところに楽器を直接置いて、そこで練習をしていたのだ。
 だからインストルメンタルだったのだろうし、同じような単調なメロディが繰り返されていたのだ。
 びっくりした。それは予想していなかった光景で、歩く足を止めはしなかったけれど、それでも思わず見入ってしまった。

 僕は車道を挟んで反対側の歩道を歩いていたのだけれど、その夜のひっそりとした場所でバンドの練習をしている4人組はなんだか現実の風景ではないみたいに見えた。通り過ぎてから振り返ると、消えてるんじゃないだろうなと思えるくらいに。もちろん、向こうは向こうで夜遅くにこんな人気のない道をてくてく歩いている人がいることに驚いていたのかもしれないけれど(人なんて通らないだろうと思っているからこそ練習場に選んでいるのだろうし)、それでもお互い特に何事もなくそのまま通り過ぎていく。
 そして、そこからしばらく歩くと東名高速の下のトンネルを潜り抜けることになり(高速道路の下を通り抜けるときには思わず上を見上げてしまう。この上をスピードを出したたくさんの車が走っているのだとぼんやりと思う)それを超えるとようやく道路標識があり、どの方向に進めばどちらの方向に出ることができるのかわかる場所になった。どうやら結構歩いていたらしく、そこが高速のインターのすぐ近くだということがわかった。最初の頭の中の地図をちょっと修正する。なるほどなるほど。

 それから、普段の散歩コースでもある隣駅を目指し歩き、結局部屋に帰ってきたときには0時30分だった。途中、23時台なのに8割がた満席というラーメン屋があってそこに入ったので(あとで聞いたところによると、有名店らしい。おいしいというよりは、味が濃すぎたけど)、実質歩いていたのは1時間30分ほどだった。

 てくてくと歩きながら、とりあえずあの道はもう夜は通らないようにしようと思いながら(人気がなさ過ぎて危険だ)、でもあの道路を朝に歩くのはたぶん気持ちいいだろうなとも思っていた。途中、家々がなくなった辺りから、遠くには山々が見えるようになり、斜面に合わせて、いくつもの電塔が高く聳え立っているのだ。また、道路の左右には野原が広がってもいたし、棒に何かの植物のつるがからみついているところなんかもあった。きっと、朝になるとのんびりと懐かしいような表情を見せるのだと思う。

 目標は歩いているうちに決めた。

 それから、その散歩の帰り道、いつもの散歩道(男なら問題なしというような人通りの多いところ)に戻ってきた後、途中の坂道で深夜の道路工事をやっていた。結構な数の人がいて、結構な数の工事車両があって。その工事車両のひとつが、照明だったのだけれど、それがとても明るかった。縦に三つの大きなライトが連なっているタイプの照明を、クレーンのようなものでマンションの3階くらいの高さまでかかげて工事現場を照らしていた。そのすぐ横の歩道を通り過ぎていったのだけれど、通り過ぎているとき、通り過ぎた後、ついついその明かりを振り返ってまで見入ってしまった。とても明るかったのだ。夜とも、昼間とも、普通の電灯の明かりともまた違って、なんだか慣れない明るさで。

 坂道を下りきった後、もう一度振り返ってみてみたら、やっぱりとても明るかった。おもしろいくらいに。
 

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 金曜日の夜は、以前に約束していた先輩とその恋人の3人で飲む。
 地下にある、個室がたくさんある焼き鳥屋。以前一度行ったことがあった店で、雰囲気がよく、メニューもおいしいところ。
 いろいろな話で盛り上がる。
 もともと先輩の恋人も知り合いではあったので、共通のネタは結構あったのだ。あと、最近江國さんにはまりはじめたので、オススメを教えてほしいと訊かれたり。
 そして、全員が北海道人であるので、「北の国から」の話で盛り上がる。
 純君のだめさ加減の話とか、吾郎さんが初期の頃と性格が大きく変わってしまっているとか、これまでのシリーズの好きなシーンの話とか。
 2人はとても仲がよく、そういうのを目の当たりすると、素直にいいなあとは思うのだけれど。

 そして、誕生日ということもあったりして、全部おごってくれた。思いがけず嬉しかった。
 話しすぎて終電を逃し、3人でタクシーで帰ったのはご愛嬌だとしても。


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 土曜日は、後輩と一緒にさいたまスタジアム2002までJリーグを観に行ってきた。
 浦和レッズ対清水エスパルス戦。
 結果はレッズの延長前半Vゴール勝ちだったのだけれど、かなり白熱した試合だった。Jリーグ観戦は久しぶりだったのだけれど(前回はコンサドーレ札幌の試合を見た)、はじめてこの目で見るレッズサポーターの応援はさすがにすごかった(39406人の観客動員数の9割ほどがレッズサポーター)。僕らは特にどちらのファンというわけでもなかったので、ホームのレッズの応援をしていて、レッズサポーターが盛り上がりを見せるたびに、同じように声を出したり、手拍子をしたりしていた。一緒になって声を出して応援をするのは気持ちいい。
 また、今回の試合はW杯の韓国躍進の立役者の一人でもある安貞桓(アン・ジョンファン)の日本デビュー戦でもあって、それもとても興味深かった(それもあってどの試合を観に行くか決めるときに浦和対清水にしたのだ)。
 清水サポーターは試合前から安貞桓コールを続けていて期待の高さをうかがわせたし、実際に後半11分に登場した際には、今度は浦和サポーターが地響きを起こしそうなほどのブーイングで挑発していた。あんなにブーイングをされるなんて、なんだかんだいってもやっぱりそれだけの選手ということなのだろう(もちろん、移籍前後の言動にいただけないものがあるからこそのブーイングでもあったのだと思うのだけれど)。
 応援していた方が勝ったのでもちろん嬉しかったのだけれど、負けた清水の三都主や戸田、市川といった日本代表選手の動きはやっぱり違うという感じだった。特に三都主のドリブルはほとんど止められることができないほどのキープ力だったし。
 
 そして、浦和がサポーターに愛されているチームなのだなと思った理由の一番は、観客が老若男女様々だということ。サッカーは基本的には若い観客が多いスポーツだという印象があったのだけれど、浦和はちょっと違った(もちろん若い人が一番多くはある)。スタジアム周辺には年間パスを首からぶらさげたおばさんやおじさんがたくさんいたし、僕らの前の席には、50代くらいの女性が2人で見に来ていた(しかも話しているのが聞こえてきたのだけれど、選手とかもかなり詳しい)。隣の席にもやっぱり50代くらいのお父さんと20代くらいの娘が2人で見に来ていた。そういう組み合わせが当たり前のようにいるなんて、すごいと、これはもうただびっくりした。
 昨日の勝利で、浦和は引き分けを挟んで5勝1分で、29日の磐田の試合の結果が明らかになるまでの暫定首位となった。そのため、試合後のバスを待っているときのサポーターたちもかなり興奮冷めやらぬ、というような雰囲気で、駅までのバスの車内でも、いろんな人がいろんな話をしていた。笑いながら。
 ヨーロッパのサッカーファンたちも、こんな感じなのだろうなとちょっと思った。

 埼玉までは後輩の車で行ったのだけれど(スタジアム周辺には駐車場がないため、シャトルバスが出ているJR駅近くのパーキングに車を停めていたのだ)、帰りの首都高は随分とすいていた。首都高を走りながら、隅田川や東京タワーを横目に、関東圏はやっぱり広いよなと、あらためて思っていた。
 夜の高速道路って、それがどこのものであれ、独特の雰囲気があってなんだか印象深く感じられる。特に地方の高速道路なんかでは、直線の長さなどの関係か、いろいろと思い出してしまいそうなスピードだ。

 夜ご飯は、最近リニューアルしたばかりのパスタとピザの店で食べる。
 そこは、何種類ものケーキをたくさん積んだワゴンが通路を巡回してきて、食事を食べ終わった頃の客に向かって、「このワゴンの上にあるケーキが3種類で500円なんですよ」と追加で注文を受け付ける方式になっていた。その店では入り口のところでケーキも販売しているのだけれど、それがおいしそうだったので、思わず頼んでしまう。ケーキはとてもおいしくて、これで3つで500円なら安いよなと思っていたのだけれど(もちろん、小さく切り分けられたもの)、その仕組みはとてもうまいよなと思った。
 最初からデザートを頼むかどうか訊ねられたらいらないと言うことが多いとは思うのだけれど、食後に回ってきてワゴンの上にある実物を見せられながら勧められると、敷居のようなものが低くなるような気がするし。しかも、テーブルを順番に回ってくるから、隣のテーブルが頼んだりしたら、おいしいのだろうなと思ってついついつられてしまったりすることもあるだろうし。


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 日曜日は、歯医者と書店。Coccoの絵本『南の島の星の砂』を購入する。文・絵・訳Cocco。河出書房新社。
 よかった。

 自らの内にあるもの(あるいは外から流入してくるもの)を表現するために、どういう方法を採るのかというのは志向や適性や意思などに基づくのだと思うのだけれど、いくつもの手段をとることができる人は確実にいるのだなとあらためて思った。


 ずっとずっと南の海に
 かわいらしい 小さな島がひとつ

 Far, far away, in the southern ocean
 lay a lovely small island.


 絵本はこうはじまり、そのページには、青い時間の海の真ん中に浮ぶ小さな島と、その島を見つめている(海から上半身を出している)人魚が描かれている。水平線の果てまで、他には何も見えない。陸地の影も、船の姿も。そこにはただ海と、空と、小さな島、そして海の仲間(人魚)がいるだけだ。

 まず、それがすごくよかった。そういうある種の感じ、世界の果てというか、どこでもないどこかというような雰囲気がその世界への導入として、ものすごく魅力的だった。たとえば地球儀や地図帳などで世界地図を見るときに、海しかない広大な領域があって、その辺りにも本当はそこに描かれているような小さな島があって、それは船にも見つけられなくて人工衛星の映像にも映らなくて、海の仲間たちが島の周辺にいるのだ、と想像してみるのはとても愉しいことなんじゃないかと思う。科学がいくら発達しても、知りえない領域であるとか、場所のようなものは絶対にあるだろうと思うし、ねじれた空間のようなものは絶対に存在するのだろうし、それが物語の入り込む隙間というような感じがする。

 もちろん、四方を見回しても海しか見えない、ということは、実際に想像をしてみるととても怖いものだ。それでも、怖さや孤独や自然の脅威のようなものを表わしているからこそ、(それを自ずから内包する)自然の美しさや世界の奥行きのようなものを深みは深みとして感じさせるのだとも思う。

 いくつかの絵の構図(雨や深夜から夜明けにかけてのところ)はしばらく眺めてしまったし、短いので繰り返しゆっくりといろいろと考えながら読んでいた。優れた表現者がある種の媒介のようになってしまうことについて考えてみたり、純粋さのようなものについて考えてみたり、内側に壁を作り出してそのなかで空想をすることについて、雨や嵐について、影遊びについて、耳をすますと聞こえるはずの音について、いろいろと考えたりぼんやりと思ってみたりした。もちろん、シンプルでそぎ落とされた言葉のことも。

 最後のところのCoccoの写真も繰り返して見てみたり。

 ちなみに、この絵本は書店ではがっちりビニールで中が見れないようになっているのだけれど、そうしないと立ち読みだけで済ませる人が多いだろうし、現実的かつ当然の仕様だという気がする(僕が買った書店ではそうだった。もっと大きい書店では、見本用にビニールをはずしたものもあるとは思うのだけれど)。


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