Sun Set Days
DiaryINDEX|past|will
| 2002年10月01日(火) |
『この命、何をあくせく』 |
『この命、何をあくせく』読了。城山三郎。講談社。
帯にはこう書かれている。
一回限りの人生、少しでもあくせくしないで過したい。 作家生活45年、人生の喜びと哀しみを知り尽くした珠玉のエッセイ36篇
本書は、企業家やビジネスマンを主人公とする小説を数多く書いている著者の「本」をテーマにしたエッセイ集で、様々な本を読んで感じたことを、過去の記憶や現在の日々に重ね合わせながら書いている。いままで何冊か読んだこの著者の小説やエッセイ、あるいは訳した本(たとえば、『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』など)がおもしろかったので、書店で手にとってみた。
基本的にはマイペースということを自分でよくわかっていて、そのスピードやスタンスに忠実に生きてきた人というように思えたし、そのスタンスはしっかりと自分の足で立っているというように感じられるものだ。そして、そのスタンスが好ましく感じられるので、読んでしまうのだと思う(以前手に取った理由もそうだったし)。エッセイって、結局はその人のまなざしのようなものがどこに向けられているのかに共感することができるかどうか、ということであるような気がするし(たとえ、それが専門性に富んだものであろうとそうなんじゃないかと思ったりもする。何かの専門家が、その対象についてどういう目線で見つめ、どういう距離で接しているのかということに惹かれるわけだし)。
この著者について抱いているのは、少し頑固で、ただ自分の考えがしっかりとあって、派手な集まりや表に立つことは苦手だけれど、かと言って人間嫌いかというとそうではなく、むしろ人間に対する深い興味を持っている――というようなイメージだ。もちろん、勝手なイメージなのだけれど(ただ、本人も本書の中でそのようなことを書いている)。でもこの、自分の目で世界をしっかりと見ているようなところに、漠然とではあるけれど惹かれていて読んでしまうのだろうなと思う。
読んでいて、印象深かったところをいくつか引用。
ところが、こうしたブームの奥には、実はオランダ政府の意図が働いていたことを、永渕氏は指摘する。 バリ島以外の島々には、オランダの利益になる作物を強制栽培させる一方、ある程度、欧米式の教育をひろめて文明化を計るのだが、それらと分離して、バリ島に対しては、それまでの王様中心に対して、村落社会を重視。(……)欧米式の文明化には消極的で、バリ全島に現地人のためのオランダ学校も二校しか置かず、(……)バリ人を「生きた博物館」に押しこめ、近代社会から遠ざけた。そうしたこの世的な思惑によって、「地球上の楽園」や「あちら側」はつくられた――と、いうのである。 (……)しかし、そうした政策が無ければ、バリ島も世界の他の地域同様に、俗化というか、アメリカ化し、ディズニーランド的になってしまい、今日の「楽園」は無かったであろう。(13ページ)
「閑」というのは門に木(かんぬき)をかけるというだけでなく、そのことによって、人は、「世間からとり戻した『自分の時間』のなかにいる。いまの己れの実在意識を『静かに』味わう心でいる」ようになる、という。 いずれにせよ、そんな風に、「閑」にしっかり腰を据えて居られるのは、著者が何より感じる人であり、考える人であり、私には無い芯の強さの持ち主であるからであろう。うらやましい話である。(47ページ)
「自分が考えもせずに、ひとの案を否定するとはナニゴトや。否定するなら、お前さんの案も出せ」(63ページ)
その駅前の眺めは、 <ひとつひとつのものには、ちゃんと色があるのに、全体の景色は、モノトーンの世界のようだ> と、巧みに描写されている。(138ページ)
三人の少年の中で、主人公として描かれているのは、小学校四年生のユータローだが、どこかへ出かけるときには、必らずメモとペンを持参するよう躾けられている。 「いつもメモができるようにね。気付いたことや、なぜ、って思ったことはメモするのよ」 と。それにいまひとつ、「自分で調べなさい」とも。(140ページ)
異性では気をつかうというので、彼女は暮らし相手として、友人である一人の女性を選ぶ。 その女性は、美しいのでも、可愛いのでもないが、「頭がよくて冷静で清潔」であったし、「彼女はいつでも地球のはじめての朝のようにさわやかだった」と。 いいことを言うと、私は大きくうなずいた。 それは、どこにでも居そうで、現実には意外に存在しないかも知れぬが、理想のホームの同居人としては、最高かつ必須の条件であることが、よくわかる。(145ページ)
ただ私は若いころから好きだった言葉通りの道を行きたい。 「静かに行く者は健やかに行く。健やかに行く者は遠くまで行く」と。(171ページ)
―――――――――
関東地方を直撃する戦後最大級の台風21号は、さっき外に出たときにはただ風だけが強い状態だった。台風の中心に近いのかもしれない。たぶん、夜に(というか夜中に)一度外まで出かけてしまうのだろうなと思う。コンビニまで(でもたぶんいつもより少し遠いコンビニに)出かけてくる予定。 不謹慎だけれど、台風にはどこかわくわくしているような気持ちも少しある。ただそれは、非日常に焦がれてしまう感覚と同じなのだろうとぼんやりと思うのだけれど。
昨日、今日と長電話が続いた。 昨日は遠くの友人と近くの友人と電話をしていたし(0時過ぎまで)、今日はまた違う人と。 ただし、今日の電話は会社を辞める後輩からの「お世話になりました」という電話だったので、話を聞いたりして最後に「頑張ってね」で終わるものではあったのだけれど。話しながら、義理堅いなと思うのと同時に、応援したいような寂しいような不思議な感覚があった。まあもちろん、これで縁が切れるわけではないのだろうけれど、それでもやっぱり基本的には接点はなくなってしまうだろうし。
「頑張る」という言葉は「頑なに張る」と書くのだよなと、むかしから印象深いときにこの言葉を発した後には考えてしまう。つまり、相手に対して「(自らの意思と行動で)頑なに張っていってね」と言っているのと同じなのだよなと思うと、これは確かに強い励ましだと思う反面、突き放している言葉でもあるのだろうなと考える。 でもまあ、結局は誰もが自分自身に対して「頑なに張る」ことを何かでは選んでいかなければならないと思うので、お互いが自分の道を行きながら他の道を歩いている人に「頑なに張ってね」とあるときはシリアスに、あるときは茶化すように伝え合いながら歩き続けるのでいいのだろうなとも思う。 問題は、自分にとって「頑なに張って」進んでいきたいものが何かということなのだろうし。
―――――――――
お知らせ
午後、ものすごい雨が降っていた時、雨のカーテンがかかっているみたいでした。
|