Sun Set Days
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2002年09月23日(月) こんなカレンダーは嫌だ+『第四の手』

 この時期になると、大きな文房具屋や雑貨屋では来年のカレンダーが売りに出される。ちょっと気が早いかなと思わないでもないけれど、東急ハンズのメールマガジンでもカレンダー特集だったし、まあそういうものなのだろう。それに言ってしまえば、洋服なんてもっと季節とずれているし。
 個人的には、シンプルなやつが好きだし、できれば書き込みができるものがいい。学生時代はずっと無印良品のシンプルな小さなサイズ(A4とB4の間くらいの大きさで正方形のやつ)のものを使っていて、読んだ本や、観た映画のタイトルをそれぞれ色を決めて書き込んでいた。そういうふうにしていると、ぱっと見て最近映画観に行っていないなとか、今月は結構本を読んだんだなとか、予定がたくさんあったんだなとかわかってわかりやすかったし。基本的にいろいろなことを忘れてしまうので、忘れないようにするためにはメモや記録は大切なのだ。

 ということで、個人的には実用度重視と言うか、シンプルイズベストという考えでいるわけなのだけれど、人によっては、結構カラフルなというか、いろんな写真やデザイン重視の人もいることだろう。実際の売り場配分がそうなっているので、そういう人のほうが多いのかもしれない。カレンダー売り場には、犬猫カレンダーとか、ディズニーものとか、となりのトトロとかそういうものも溢れている。たぶんそういうのは買わないのだけれど、今日は、こういうのは絶対に買わないというものをちょっと考えてみる。




○ジェイソンカレンダー

 名前の通り、『13日の金曜日』のジェイソンの写真が毎月登場するやつ。しかも、7月で一度倒された写真なのに、8月になったらまた生き返ってるの。12月はなんと宇宙に(※注:現在公開されている最新作では、ジェイソンが宇宙で大暴れしている)。


○徳川十五代カレンダー

 1月……家康、2月……秀忠、3月……家光、と歴代将軍が毎月登場する豪華なカレンダー。豪華桐箱入り(使わないよ)。え? 1年は12ヶ月だって? もちろん、マイナーな将軍(たとえば、9代家重と10代家治)なんかは一緒に1月分になっているなど意外と芸が細かい。類似品に足利十五代カレンダーあり。


○街のベッカム君カレンダー

 渋谷や新宿を歩いていた、(いまだに)ベッカムヘアーの男の子たちの写真を集めたカレンダー。って言うか、これは本気でいらないんですけど……


○しょっぱいカレンダー

 毎月、しょっぱいシーンのイラストと、その解説の文章が載っているカレンダー。

――例――

<1月>間違えて15日に成人式会場に行ってしまったA君のイラストがあり、成人の日がかならず連休になっていることを説明する文章が書かれている。

<10月>高校の体育祭で、ダンスの時間に男子クラスのため男子同士で踊っているイラストがあり、少子化の説明の文章がついている。


○欽ちゃんファミリーカレンダー

 欽ちゃんファミリーが(いま、なぜか)再集合しているカレンダー。あんな人やこんな人も欽ちゃんファミリーだったんだねという感慨にはふけることができるかも。


○ウォーリーを探せカレンダー

 もう探さなくていいでしょ……




 いずれにしても、(そして、毎年似たようなシンプルなやつを買ってしまうにしても)またカレンダーを選ぶのは楽しみだったりはするのだけれど。


―――――――――

『第四の手』読了。ジョン・アーヴィング著、小川高義訳。新潮社。
 帯の裏にはこう書かれている。


 TVジャーナリスト、パトリックは、インドでサーカスの取材中、ライオンに左手を食いちぎられる。以来、なんども夢に現われる、新緑の湖と謎の女――。やがて事故死した男の手が移植されることになるが、手術を目前に「手」の未亡人に子作りを迫られ、月満ちて男の子が誕生する……。稀代の女ったらしが真実の愛に目覚めるまでのいただけない行状と葛藤を描く、巨匠による最新長編。


 アーヴィングの長編でありながら、上下巻にわかれていないのがなんだか不思議な気がする(400ページ弱の分量)。
 いつもなら遅れがちな翻訳が今回は早かったのも(2001年発表の新作)、そのせいなのかもしれない。
 この作品は身を刷り削って書いたというような大作ではないし、むしろ長篇作家が合間に書きそうな作品という感じだ。もちろん、自分のスタイルを確立している作家なので、充分に読ませるし、面白かった。けれども、そこにはある種のスケールのようなものがほんの少し損なわれているような気がする。それはこの作品の前に読んだのが『海辺のカフカ』だったからなのかもしれないし、そういう意味でいえばタイミングが悪かった。もちろん、それぞれの作品にはそれぞれの意図があり、独立した作品でありまったくの別物なのだけれど、読んでいる自分は一人なので、どうしても読んだ本の順番での相対的な感想というやつが生じてしまうのだ。正直な話、どんな話だろうと『海辺のカフカ』にかなわないと(少なくともいまは)思えてしまうので、そういう意味ではしょうがない。

 もちろん、アーヴィングは大好きだ。『ホテル・ニューハンプシャー』は個人的なオールタイムベスト10には必ず入るし、『ガープの世界』だって、『オウエンのために祈りを』だって、『未亡人の一年』だって大好きな作品だ。それは変わらない。『第四の手』だってなんだかんだ言って実はよかった。ただ、求めるものが大きかっただけなのかもしれない。読む前に期待をしすぎちゃいけないというのは好きな作家であればあるほど思うし、できるだけそうしないように頑張ってしまうのだけれど、それでもやっぱり期待してしまっている。そして、この作品だって期待には充分応えている。けれども、ごく少数の本当に好きな自分にとって特別な作家には、期待以上の「何か」を求めてしまうのだ。それはまったくもって勝手な、読者としての一方的な願望なのだけれど。
 その「何か」が今回はちょっと足りなかったような気がするというだけの話。いつものアーヴィング節は(やや軽くなりつつも)健在だし、面白いのだけれど。

 相変わらず人物造詣が面白い。特徴のたいしてないような主人公である考えなしの色男パトリックを媒介に、いつもながらの人癖も二癖もある人物たちのオンパレード。男性陣ではゼイジャック博士がいい味を出しているけれど、印象度的にはこの作品では女性陣の方に軍配が上がる。と言っても、思い返してみればアーヴィングの作品では、いつだって女性が強いのだけれど。ジェニーしかり、フラニーしかり、メロニィしかり。
 今作でもドリス・クラウセンにメアリ・シャナハン、イブリン・アーバスノットにアンジー、偽名を使った老婦人。そういったたくさんの(少々風変わりで)魅力的な女性たちが登場する(中にはちょっと勘弁してもらいたいというような魅力を持った女性もいる)。彼女たちに対するパトリックの態度が本当に媒介的なものなので、逆にそれぞれの女性の個性が浮かび上がってくるといった感じだ。

 そして、以前村上春樹がどこかでかつてのアーヴィングの作品には最後にぐっとくるようなシーンがあると書いていた記憶があるのだけれど(正確な言葉を思い出せない。確かそういうニュアンスだったはず……)、そういう意味でいう心温まるというか印象的なシーンが、この作品では途中何箇所かであった。それは確かに珍しいことなのかもしれない。かつてはその本当に長い物語の最後の方に、心を掴まれるようなシーンがあったのだ。そしてそれは最後に来るからこそ、大きな感動(のようなもの)を抱かせてくれていたのだけれど(『ウォーターメソッドマン』なんかは、それがなかったらさすがに読了感が辛かったろうと思うし……)。けれどもこの作品ではいくつか途中でそういうシーンがある。

 パトリックの所属するテレビの世界に対する皮肉めいたものはあくまでも表層から深まることはないし(それが逆にパトリックの性質と合致しているとは思うのだけれど)、世界の暴力性のようなものは狂犬が吠え掛かるのを我慢しているように、ここでは以前よりもずっと身を潜めている。かわりに、一人の男が愛に目覚める様子に焦点が当てられ、どちらかというとそのためにスケールは小さくなっている(言い換えるのなら、かつての作品はもっと世界の暴力性だとか、問題点のようなものに言及するところがあって、それが最後にきわめて個人的なシーンに収斂されていくというところが印象的に思えていた理由なのかもしれないけれど、今回は最初から結構個人的な話に終始するので、そういうシーンが途中に何度も挿入されているように思えたのかもしれない、ということ)。
 けれどもそれはきっと悪いことじゃないのだろう。それに、いくつかのシーンは本当に印象的なものだったし。映画化されてもあそこは名場面になるだろうなというような感じ。

 ……それでも、同時代に生きている大好きな作家には、とんでもない期待をしてしまう。
 圧倒的で、魂ごともってかれるような作品を創り出してほしいと。
 願うのは楽なものなのだけれど。

 
 いくつかの部分を引用(これから読もうという人は読まない方がいいですよ)。


「このところ悪い気はしなかったのよ。女の中にすっかり自分を見失える男と付き合っていたんだからね。でも逆に言えば、あなたって人は中身が乏しいから、どんな女にもあっさり自分を失えるんじゃないかしら」(21ページ)


 二人とも行為を仕掛けようとはしなかった。どちらかが体を求めたとしたら、そうなったかもしれない。だがウォーリングフォードは、男の子のように、読み聞かせてもらうほうを選んだ。セアラ・ウィリアムズも(このときは)色気よりも母親めいた感情を強めていた。それに、青年男女が裸になって――知らない同士で、昼日中にホテルの部屋を暗くして――E・B・ホワイトを読んだりすることがどれだけあるか。さすがのウォーリングフォードも、このユニークな状況を大事にしたくなったと言わざるを得まい。(230ページ)


「おやすみ、ドリス。おやすみ、オットーちゃん」暗いホテルの部屋でウォーリングフォードはささやいた。自分が芝居していないと確かめたいときには、そう口にするのだった。(238ページ)


 するとドリスとオットー・クラウセンの結婚指輪が思い出された。ボート小屋の桟橋の下、暗い湖水との中間で、懐中電灯の光に輝いていた。あれを釘で留めてからドリスは何度もぐったことだろう。桟橋の下で懐中電灯を手に立ち泳ぎをしたはずだ。
 それとも一度も見なかったのだろうか。ただ単に――これからのウォーリングフォードもそうなるだろうが――夢や想像の中だけで見たのだろうか。だとしたら、金はより輝きを増し、指輪はいつまでも湖面に映っていることだろうが。
 もしクラウセン夫人が考えてくれるとしたら(……)それよりも大事なのは、桟橋の下の指輪がドリス・クラウセンの夢の中で、想像の中で、どれだけの輝きを保っているのかということだ。(339ページ)


 だが本というものは、映画もそうだろうが、もっと一人だけの、ひっそりとしたものなのだ。いい作品だとうなずき合えることもあるだろうが、こうだから好きと言えるような理由までが、すんなり一致するわけではない。
 いい小説や映画は、ニュースとは違う。(……)読んでいるとき、あるいは見ているときの、すべての感情の総体なのだ。ある人が映画や本を愛するとして、その愛を他人がそっくり真似することはできない、とパトリックは悟った。(358ページ)


 そして、最後の謝辞にあるアーヴィングの言葉もおもしろいので引用。


 実際問題としてそういうことは起こらないだろうということです――(……)それでも私はストーリーとしての可能性がないかどうか耳をすませます。いつも私の小説は「もし〜だったらどうだろう」というところから始まったのでした。(391ページ)


 さらにこの作品は、ラッセ・ハルストレムによってすでに映画化が決定しているとのこと。いくつかのシーンは、ハルストレムの撮る美しい風景の中にぴったりと溶け込むだろうなと思う(ちなみに、パトリックが東京と京都を訪れる重要なシーンもあるので、ハルストレムがそれらの都市を撮る可能性があるわけです。新幹線の中のパトリックとイブリンも)。

 そうそう、それからこの単行本の中にも、「中野区の話らしい。」という『海辺のカフカ』の予告の紙が入っていて(以前新潮文庫に入っていたやつ)、ターゲットは間違っていないよなあと思ってみたり。


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 お知らせ

 でもなんだかんだ言っても、好きな作家の文章に(翻訳でも)触れることができるのは単純に好きな時間ではあるのですけど。


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