Sun Set Days
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雨は1日中降り続け、灰色の雲の下街は煙って見えた。
遠い未来には、現在では考えられないような技術力を用いることによって、過去の記憶をまるでテレビや映画を見ているように目の前で再現してくれるジュースの缶のようなカプセルが売りに出されるようになっていた。
たとえば、それは街の様々なところで自動販売機のようなもので売り出されていたり、「メモリーズ」とかいうようなチェーン店の店頭で購入することができた。
購入方法はいたって簡単だ。誰もが、いくつかのボタンを押して、思い出したい記憶を選ぶ。
最初に押すボタンは、「喜」「怒」「哀」「楽」で、次に押すボタンが年齢。0歳から1年ずつずっと続いている。
もちろん、そこで0歳を押すことも可能だ。 0歳を押すと、まだ自分がただ泣いていることしかできなかった、見守られるしかなかった頃の映像が浮かび上がるだろう。
次に、月を選ぶ。1月から12月まで、それぞれの月を選ぶことができる。日付は(たいていの記憶がいくら印象深くても詳しい日付まで覚えていないことが理由なのだけれど)押す必要がない。思い出したいときの自分の年齢と、何月かということだけ。 もちろん、よく覚えていない人のために、10代前半とか、10代後半っていうボタンもある。春とか、秋というボタンもある。記憶はデリケートなものであり、カプセルの生成には細心の注意が払われているのだ。適度にシステマチックに、かつたくさんの需要にこたえることができるように。
記憶は甘くときに切ない、実入りのいいビジネスになっているのだ。
次に選ぶのが記憶の属性だ。そこには、誰との記憶を思い出したいのかということをある程度選ぶことができる。それは「家族」であり、「恋人」であり、「友人」であり、「風景」だったり「事件」だったりする。ちなみに、ある企業の調査では、一番多い需要は「家族」であり、とりわけまだ幼かった頃の家族の記憶を蘇らせたい人が多いとの結果が報告されている。次に、青年期における愛についての記憶と続いている。
選択するのは、そこまでだ。現状の技術では、それ以上こみいった記憶を再現することはできない。そこまでの情報を有機液晶ディスプレイの簡単なボタン操作で、順番に選択していく。そして機械の中にあるメモリースティックという赤いバーが光りだしたら、画面の指示に従う。
「メ ノ マ エ ノ ア カ イ バ ー ヲ ニ ギ ッ テ ク ダ サ イ」
そして、思い出したい記憶を思い起こしながら、あるいはランダムに記憶が蘇ることを期待しているのであれば漠然と記憶の種類に近い感情を抱くよう努めながら、その赤いバーを握る。赤いバーはゆっくりと明滅を繰り返し、たっぷり29秒たってその間隔が間延びしていき、やがておさまっていく。
画面に、その記憶缶の金額が表示される。それは安いものから高価なものまで様々で、よくコレクターの収集の対象になるものに外れの割合が多いように、安い記憶が現れるケースが多い。ただ、たまにひどく高い金額が画面に表示されるときがあり、そんなときたいていの人が驚きかつ期待する。購入は現金でも、いくつかのICカードでもすることができるし、あまりに高い記憶の場合、ローンを組むこともできる(あまりに高額な記憶に手を出し、経済的危機に陥った個人も少なくないという調査結果も出ている)。
すべてよければ、「確認」のボタンを押す。ガタンという音がして、記憶缶が取り出し口に落ちてくる。 記憶缶は、そのときによって色が違う。 赤色に青色に、淡い橙色に、薄い緑。様々な色で、あけるまでの間様々な想像をめぐらせることができる。缶の色と記憶の種類との相関関係はいまのところ明らかにされていない。
記憶缶を開けるのは必ず1人でという注意書きが書かれている。それは、記憶を見ている間、ある種の覚醒状態に入るからであり、たとえば道端でそのような人がいると、なにかと面倒なことになりかねない。だから、主に部屋の中で開けることが推奨されている。
そして、購入者は記憶缶を生まれたての雛のように大切に抱えながら、永遠に晴れることのないような重い雨の降る街並みを部屋まで帰り、そこでゆっくりと記憶缶を開ける。残念なことながら、現状の技術力ではそれほど美味しい飲み物にはなっていない。たとえそれが甘い記憶だったとしても、甘い味を付与することまではできないのだ。それは無味透明な液体で、味についての感慨のようなものはほとんどない。 記憶缶を飲んで、29秒経過すると、ゆっくりと意識が薄まり、目の前にある種の記憶の残像が浮かび上がりはじめる。そこで、誰もが一度ビクンとふるえる。
すぐに、それがいつの記憶であるのかを、正しく理解する。 そのときに思い出したくない記憶であることをある種の直感で理解したとしても、そこで記憶の再現をとどめることはできない。記憶購入はある種の自己責任とリスクを負うことでもあるのだ。
いずれにせよ、記憶が再現される。それがよい記憶でも忌まわしい記憶でも。 現在の調査では、平均すると10分から1時間の間で、多い人で5時間近く再現されていることが報告されている。
記憶の再現と時間との関係性については、長さが問題ではないというアンケート結果もある。 短い時間でも、身を切るような一瞬の映像と、言葉、そういうものが再現されるだけで支払った対価に見合うことは十分あるし、長くてもただ退屈な記憶を延々と再現される場合だってある。 それでも、誰もが過去の記憶をイメージしたものではなく、現実にあったものとしてそのままの状態で見るのだ。
過去の記憶をたどること。 何度も繰り返し、過去を追体験すること。 それは、ある種の人たちにとっては渇望されることであったし、ある種の傾向を持つ人たちにとっては止め難い誘惑や中毒となった。 時間の不可逆性の原則を覆してしまうことですらあった。
人は弱く、技術はときにその弱さを助けるように見えて突き放す。記憶缶にふれることを「退廃」だとして廃絶運動が起こることになるまでにそれほどの時間を有するわけではなかったし、現在や未来ではなく過去に目を向ける人たちは常にいて、またそれがどうしようもないくらいのリアルな重さで獲得することができるようになったことが、そういう人たちの傾向を助長することにもなっていた。 最初はただの娯楽のはずだったのに、いつの間にかそれは絶ち難い依存へと、逃れ難い甘美な誘惑へと変わっていったのだ。
そのようにして(もちろん、それはたくさんの理由のうちのひとつでしかないけれど)、大きな船はゆっくりと滅亡の港に向かってゆるやかに航海を続けていた。 終わらない雨は、世界中のすべての街を、港町であるかのように冷たく湿らせていた。 すべての防波堤の上には猫が、きたるべき大きな波を遠くにまっすぐに見据えていた。 もしかすると猫だけがその大きな船の行く末を知っていたのかもしれない。
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Information あなたは、記憶缶を買いますか? 一度だけ買いますか? それとも、しばしばそれを買いますか?
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