解放区

2014年07月27日(日) ぜいたく煮

少し前の話だが、上司に「病状的に難しい患者さんがいるので、自分の代わりに診てほしいのだが」とお願いされた患者さんがいた。上司が長いこと診ていた人だったので、なぜてめえに投げたのかよくわからなかったし、今もわからない。上司の手に余ると判断したのか、てめえの手腕を試そうとしたのか。前者の訳がないので、おそらく後者だろうとは思う。

80歳くらいの女性で、腎機能は既に廃絶しており、週3回の透析が必要な方だった。人工透析も長いこと受けておられた。それだけではなく、肝機能も悪く常に腹水が貯まっていた。いわば難病をいくつも抱えている悲惨な人生だったが、ご本人はとてもポジティブな方で、透析をしていない日は積極的に人生を楽しまれていた。友人と遊びに行ったり料理教室もされたり、その他多趣味な方だった。

もちろんてめえが受け持った時はそんな多趣味であることなどは知らず、度重なる入院生活で話を聞く中で知ったことだった。患者生活も長い彼女は、若いてめえに最初こそ警戒心を隠さなかったが、治療計画などを説明するうちにどんどんと打ち解けて行った。

ご本人が最も悩まれているのは腹水だったので、まずはこれをどうするか相談した。お腹がぱんぱんで、遊びにも行けないの、と彼女はこぼした。80超えてたらもうええんちゃうの、とはてめえは言わない。こういう人にはとことん遊んでほしい。

まずは腹水の性状を確かめさせてほしい、とてめえは言った。さっそく彼女のお腹に太めの針を刺し、腹水を摂った。

その腹水を検査に出し、分析する。肝臓が原因の腹水なので悪性ではないことはわかっていたが、意外と栄養成分が多かった。

栄養成分がなければ、単純に貯まれば抜くという方針でいいのだが、栄養成分がリッチなのであれば、腹水を抜けば抜くほど痩せていく。

そんなわけで、治療方針は決まった。出来るだけ腹水を抜いて、純粋な水分だけを取り去って、栄養成分だけを点滴で彼女の体内に戻す。

いったん体外に出た成分を戻すのは、自分の一部だったとしてもそれなりの危険を伴うのだが、彼女はこの方針に賛成された。

月に1回入院して、1泊で腹水を抜いて栄養成分だけを戻すという治療を行うこととした。1泊するのは、副作用が出ないかどうか確認するためだ。そして副作用がないことを確認して、ついでに透析も受けて家に帰る。

そしてしばらくはこの治療は著効した。体内に栄養成分を戻すことで腹水も出来にくくなった。不安気味だった彼女が、笑顔を取り戻すのにさほど時間はかからなかった。

毎月ルーチンワークのように入院するというのに、彼女はいつも笑顔だった。
「入院して治療を受けると、いつも元気になるの。ありがとうね」
と彼女はいつも言った。

腹水治療のための入院中に彼女から色んな話を聞いた。てめえは治療と関係ない話が好きで、治療に関係ない話が多いほど、治療関係としては成功していると思っている。治療に関係ない話をしない医師も多いが、それだとてめえは仕事を続ける自信がない。

しかしあらかじめ予想していた通り、腹水は増えて行った。月一回では間に合わなくなり、彼女は月2回の治療を希望した。それはもちろん受け入れられる範囲だったのだが、この治療は保険上、月2回までしか出来ないのだ。

だから2回まではできるのでは、と思う医師と、2回以上必要になればどうしようか、と思う医師に分かれると思う。てめえは後者で、今後のために次の治療を考えませんか、とてめえは彼女に言った。

それまでの入院治療で副作用が全く生じず、回診のときにも医療と関係ない話題で盛り上がっていたてめえを、彼女はとても信頼してくれていた。

今まで通り、保険で出来る範囲の治療を続けるか、あるいはリスクはあるが別の治療法を試すか。どうしますか。

「私は今まであなたを信頼して治療を受けて、その結果にとても満足している。この数ヶ月、本当に充実した人生だった。だから、あなたの選んだ方針であれば、それを受け入れます。」

と、彼女は言った。

人の人生を受け入れるのは非常に困難である。今まで通りの治療を続ければ、緩やかに悪化はして行くが今まで通りの人生は難しい。別の治療法を選択すれば、リスクはあるが今まで通りの人生を続けられるかもしれない。

そして、てめえは後者を選択した。

後者の治療には手術が必要だった。内科医であるてめえは手術を出来ないので、最も信頼している医師に手術を依頼した。手術の段取りだけを決めて、彼女はいったん退院した。

ここからは娘さんに聞いた話。いつも遊びに行く時のように、彼女は手術のための入院日に「じゃあ、行ってきます」と軽快に歩いて家を出たそうだ。

そしててめえの勤務しない別の病院に入院し、手術は成功した。

手術は成功したが、術後に様々な合併症が出た。先方の病院も手を尽くしてくれたが、意識状態が戻らないままてめえの病院に転院となった。

転院されて来たとき、引き継いだてめえは彼女のあまりの変わりように驚いてしまった。難病をいくつも抱えていたにもかかわらず元気に過ごしていた彼女。しかし手術の合併症で、彼女は意思疎通も出来ず寝たきりになっていた。いわゆる、予想できた中では最低の結果。

最終決断をしたのはてめえなので、てめえは家族に心から詫びた。もちろん、そんな筋はないが、本当に申し訳ないと思ったのだ。家族はてめえを責めることはなく、治療の選択は母も納得していたので仕方がなかったと思っていると言われた。

なんとか病状が好転することはないだろうかと、てめえは出来る限りのことをしたが、日に日に病状は悪化する一方だった。

そんなある日、病棟で仕事をしていたてめえのPHSが鳴った。
「血管が破裂したんです、今すぐ来てください!」

呼ばれた病室は彼女の病室だった。血管が破裂? って良く意味が分からんが、と思いつつ、てめえは全速力で病室に向かった。

病室では看護師が必死に腕を圧迫していた。てめえは使い捨ての手袋を両手に嵌めると、看護師が押さえている部位をそっと外した。

たちまち血が噴き出した。上腕の動脈が何らかの原因で破裂したのだ。てめえは両手で動脈を圧迫した。吹き出す血は押さえられたが、彼女の顔色はどす黒くなっていた。普段は起きないことが起きるということ自体、もう終わりが近いということを示している。

とりあえず、そばにいた看護師に輸血の準備をするように指示した。「輸血はわかりますけど、この血管はどうするんですか?」と看護師は小声でてめえに囁いた。ふと周りを見上げると、たくさんの家族の方がいた。「とりあえず、圧迫するしかないやろ」と、てめえは言った。

先ほど一瞬だけ見た血管は完全に裂けており、縫合で何とかなるレベルではない。人工血管を置く? それはこの状態では無理だろう。とすると、止血するまで押さえ続けるしかない。しかし避けた動脈が止血するなんて、医学の常識としてはあり得ない。

そうでなくても彼女の生命は長くないだろう、とてめえは考えた。呼吸は今にも止まりそうで、これ以上侵襲を与えることなんて考えられない。

てめえは腹を据えた。息をのんでいた家族に状況を説明して、てめえは出血が止まるまで押さえ続けると言った。

そう話している最中に、病室に飛び込んできた人間がいた。てめえにこの患者さんを丸投げした上司であった。

彼は、居並ぶ家族を確認するとにっこり笑い「少し席を外してもらえますかな」と言った。

患者とてめえと上司の3人になった病室で、彼は先程の笑顔を消した。

「で、どうするつもりや?」
「血管は完全に裂けていてどうしようもありません。正直、時間の問題やと思うので、それまで私は止血を試みます」と、てめえは言った。

「なるほどそれも道理やけど、これが3日続いたらどうする? さっきオーダーした輸血が届いたらしばらくはもつ。君は3日間押さえ続けるつもりか」
「その覚悟でしたが」
「アホか! その間、お前の患者は誰が診るんや? 家にも帰らずひたすら血管を押さえ続けるのか。それは建設的じゃない」
「じゃあどうするのですか」
「俺に考えがある」

と、上司は看護師を呼んだ。

つづく。と思う。笑


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