解放区

2014年07月28日(月) ぜいたく煮 その二

「オペ室に外科用の縫合セットがあったやろ、あれ持って来て。それと血圧計も持って来て」
上司はそう看護師に指示した。

血圧計はすでに看護師が持参していたのがあったので、それを上司は受け取ると、彼女の上腕にマンシェットを巻き付けて勢いよくポンプから空気を送り出した。

腕に巻いたものにその人の血圧より大きな圧をかけると血管は完全に閉塞する。そして、血圧計の圧表示が150を超えたところで、彼女の腕は血の気を失い完全に真っ白になった。

腕が真っ白になったことを確認して、てめえはゆっくりと破裂した血管から指を離した。血流は完全に途絶されており、そこからは一滴の血液も出てこなかった。ちょうどそのときに、手術室から外科用の縫合セットが病室に届いた。

「長時間このままだと腕ごと壊死するから、さっさと勝負をつけようか」

そう言って、上司はてめえに外科手術用の手袋を渡した。

「こういうの、得意やろ? 俺はもう歳でうまくやれる自信はない。今のうちにとっとと縫ってくれ」

そこまで言われればやるしかなく、てめえは手術着に着替えて外科用の手袋を嵌めた。そして縫合セットから出来るだけ細い糸を選び、針の先に装着した。

そして慎重に、裂けた血管に針を通す。一方の血管壁に糸を通し、もう一方の血管壁にも慎重に糸を通した。

後は縫うだけだ。

ゆっくりと結び目を作り、血管壁と壁を合わせようとしたが、残念なことに縫合した糸は血管壁を容易に裂いた。

できるだけ丈夫そうな部位を選んでも同じだった。長年の宿痾を抱えていた彼女の血管は、すでにぼろぼろだったのだ。

タイムリミットは近付いている。いったん血圧計の圧を解除し、血流を回復してから再度圧をかけるという方法もない訳ではないが、結果は見えている。

血管を修復するのは不可能だった。しばらく考えて、てめえは血管の周りにある皮膚を寄せて、裂けた血管を覆うように強く縫い込んだ。

縫い込んだ状態で、いったん血圧計の圧を解除する。縫った部位から血が吹き出るようなことがあればやり直しだが、傷口から滲む程度で出血はほとんどなかった。

念のために、団子状にしたガーゼで圧迫し、弾性包帯をぐるぐるに巻き付けた。

「…あとは祈るだけや」

と上司は言った。てめえも全く同じ気持ちだった。その頃には輸血も届いていたので輸血を開始し、血圧などが安定していることを確認して家族を呼んだ。

「なんとか止血は出来ましたが、状態は非常に厳しいです。おそらく今日明日あたりが山でしょう。呼べる家族はみんな呼んでください」

とてめえは説明したが、目の前で動脈の破裂を見た家族は未だ放心状態だった。


その間にまるっと放置していた他の患者の処置や投薬の指示を終え、結局その日の仕事が終わったのは午後9時を過ぎていた。一通りの仕事を終えたてめえは、彼女の病室に向かった。

病室には溢れるくらいの人がいた。彼女は静かに眠っているようだった。人をかき分けかき分け彼女のそばに立った。裂けた動脈は、しっかり止血されているようで弾性包帯には血が滲むこともなかった。

親指の付け根にある橈骨動脈をそっと触れてると、しっかりとした拍動を感じる。動脈を完全に閉塞しているのではなく、血流もちゃんと通っている、ということだ。病室に置かれたモニターを見ても、血圧も脈拍も安定していた。今のところは安定しているようだ。よかった。

「今は、安定しているようですね」

と、てめえは振り絞るように言った。

一通りの診察を終えて病室を出ると、キーパーソンの娘さんも一緒に病室から出て来た。

「さっきは動転してしまったけど、ちょっと時間も経ってやっと落ち着きました。ここまでしていただけて、皆様にはとても感謝しています。でも、母もよくがんばった。もし次に何かあれば、もうそのままにしていただけませんか。勝手なことを言いますが、これが私たち家族の総意です」

そうだろうな。とてめえは思った。このご家族さんは、非常によく母のことを理解されておられた。だから最期は、という意思は、痛いほどに理解できた。

わかりました、とてめえは言った。そう、よくがんばった。

そう思い、もう一度病室の中を見た。多くの家族に囲まれて静かに眠る彼女の寝顔は、苦しみなどもうすでにどこにもないような穏やかな顔をしていた。

それから彼女はひたすら眠り続けた。家族の希望で、週3回の透析も中止した。「母は誇り高い人であり、もし意識があったらこの状態で透析を続けることに同意するとは思えない」との娘さんの意見を汲んだのだ。

それからきっかり1週間後、家族に見守られながら彼女は息を引き取った。ちょうど、桜が満開の季節だった。



それからしばらく経ったある日、娘さんが病院を訪れた。娘さんはとても穏やかな表情だったので、てめえも安心した。

「あの亡くなった日ね。病院を出て、鴨川沿いに母を乗せた車を走らせたら、桜がきれいでね…。お母さんはこれを見るために、血管が破裂してから1週間がんばったんだと気が付いたんです。なんせ、桜がとても好きな人だったから。このタイミングで病院を出たかったんだねって、みんなで帰り道に笑って…。変でしょ、亡くなったばかりなのに。でもなんだか可笑しくてね」

と娘さんは笑った。

しばらくはとりとめもなく彼女の思い出話をした。

そうそう、今日は先生にお礼を持って来たの。と、娘さんはタッパーを取り出した。タッパーをあけてみると、その中には「ぜいたく煮」が入っていた。

母の得意料理でね、母の味を再現してあるからぜひ食べてね、これを先生に食べてもらうのが母の想いだと思ったの。それとタッパーは返却不要なので適当に有効利用してね、と娘さんは笑った。


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