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『「来ていたんですね」 ゆっくりと近づいてきた樺地は、小屋の戸口の椅子に腰掛けていた跡部に言った。 「あぁ」彼は男を見上げて言った。 「遅かったんだな」 男は森の方へ眼をやりながら頷いた。 彼は椅子を引いて立ち上がった。 「入るか?」 「あなたが毎晩ここへ来るのを他の者は変に思いませんか?」 男は厳しく、突き放すように彼を見下ろした。 「俺は来ると言っただろう」 彼は男の反応に戸惑いを覚えながら、その動揺を表には出さずに男を見上げた。 「それに誰にも分かりはしない」 「すぐ分かってしまいますよ」 男が答えた。 「そうしたらどうします?」 彼はどう答えたらいいのか分からなかった。 「分かってしまうものなんです」 男は重々しく呟いた。 「もし知られたら、あなたはひどく屈辱的な思いをします」 「俺の事はどうだって・・・」 「考えてもみてください。もし皆が知ったら・・・噂になったら・・・」 男は彼から目をそらし、森の中を見やった。 「もう来て欲しくないなら、そう言え」 彼が言うと男は黙って首を振った。 「じゃあどうして。俺は気にしない。何かあったらあの家を出ればいいんだ」 「今はそう思っていられても」 「お前は俺を疑うのか、樺地」 男はまっすぐに彼の眼を見た。 「あなたを疑ったりしません」 彼を見る男の目は黒々と深く、その穿たれた二つの闇の奥に灯る明かりがかすかに揺れるのを彼は感じ取った。このどこまでも泰然とした穏やかな男に火を灯し、動揺させているのはこの自分なのだ。彼は喜びを覚えた。 「あなたは気にかけなければいけないのに。後になってからではもう間に合いません」 男はなおも説得するような調子だった。 「俺は何も失いやしない。それがどんなものか分かればお前も俺がそれを捨てたがる気持ちが分かるだろう。俺は何も怖れていない。怖れているのはお前の方じゃないのか?」 男は黙って頷いた。 「何を怖れているんだ、お前」 男は両手を軽く広げた。 「いろいろな事、いろいろな人間、全て」 「俺も?」 「あなたは違います」 男は首を振って答えた。彼のこわばった顔がほんの少し安堵でやわらぐのを男は見た。そんな風に男の一言や行動で彼の心が騒ぐのを見るのは、男にとって新鮮で、驚くべき、不思議だった。なぜ自分なのか、男はこれまで何度も浮かべた問いを心の内に潜ませながら、彼の頬に指を添えた。 「分かりました。やってみましょう。他の事はどうだっていい。けれどもしあなたが悔いるような事に・・・」 「後悔?この俺が後悔などするものか」 彼は自分に触れる男の指先を掴んだ。 「悔いたり迷ったりするのなら、ここには来やしない。俺はもう決断したのだから」 彼がお前はどうなのかと問いかけるように投げかける眼差しに答える代わりに、男は彼の指に静かに自らの指を絡めた。』
☆「チャタレイ夫人の恋人」(D・H・ロレンス)って樺跡じゃねぇ!という雄闘Qの主張が生んだ妄想。その2。続けたい気持ちは山々。☆
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