ランディのおばあちゃんが亡くなった。
わたしには、物心ついた頃から、祖母という存在はいなかった。 ランディと結婚し、老いた女性という意味ではない「おばあちゃん」というものをはじめて知ったことになる。 穏やかで、元気で、やさしい人だった。 矍鑠たる肉体に、明晰な頭脳。 晩年、耳が遠くはなったが、その分、集中力が増したようだった。 去年のわたしの誕生日の一ヶ月前に、「らるごの誕生日は今月だったかね?」と言いつつお祝いをくれた。 「違うよ」と言ったら、 「おや、そうだったかね?早い分には構わないでしょう」 と言った。 お小遣いの入った封筒には、
「貴女が風邪をひくと、ランディの御飯を作る人がいないから、身体に気をつけてね」
とあった。 おばあちゃんが、わたしにやさしいのは、わたしがランディの妻だからだ、と隠さないその文面が、とても微笑ましかった。
なにか、お気に入りのものを棺に入れてあげようと、ランディのお母さんと一緒に、おばあちゃんの部屋を見た。 眼鏡に、新聞の俳壇コーナーの切り抜き、趣味の俳句のための歳時記、2000年からつけていたらしい日記、数少ない衣類。 壁には、孫の結婚式や曾孫の七五三などの節目に作ったらしい俳句を書いた短冊。 質素で、慎ましやかで、高価なものはなにひとつない四畳半の部屋。 歳時記は、厚すぎて、燃え残るといわれたので、俳句の推敲に使っていたらしいノートの切れ端を棺に入れた。 日記を開いてみると、殆ど一日一行、その日にあったことを記しただけの備忘録だった。 「●月●日、△△来る」 とか、 「×月×日、□□に買い物」 というようなものだったが、最後の入院の直前、告知されていない自分の病名をしっかりと自覚し、 「孫たちが家を建てようとしているのに、私が苦しいと言っては滅茶苦茶になる。しっかりせよ」 と自分を叱咤する文章があった。
これだけしっかりしていて、カレンダーには子供、孫、曾孫の誕生日に印をつけているおばあちゃんが、わたしの誕生日を間違えるはずがない。 多分、あのとき、おばあちゃんは、自分が長くないものと思って、一月早く、わたしに誕生祝いをくれたのだろう。 おばあちゃんは、その後、12月はじめのわたしと、その3日後のランディのお兄さんの誕生日を無事に過ごし、年を越し、桜が終わるまで持ちこたえた。
享年九十一歳。 葬儀には、多くの人が参列してくれた。 どれほど長寿であろうとも、死を惜しまれる人はいるものだ。
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