日常妄想
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2007年11月20日(火) |
『なにがしあわせかわからないです。』のこと。 |
ほんとうにどんなつらいことでも それがただしいみちを進む中でのできごとなら 峠の上りも下りも みんな本当の幸福に近づく一あしづつですから。
ああそうです。 ただいちばんのさいわいに至るために いろいろのかなしみもみんな思し召しです。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より
+2年前の5月17日に同じタイトルで書いていますが、そんな気持ちだったのでそんなタイトルで。宗教じみている一節ですが、昔からわたしのとても好きな会話なのです。どうしてか不思議。なにもかもを天に委ねようとするところが好きなのかなぁ? 運命って嫌いな言葉なんですが、それに通ずる言葉だよね。(神の)思し召し=運命。嬉しいこと哀しいことも全部丸めて♪ はだんご大家族(笑) 本当に不思議な会話です。
わたしはただしいみちを進んでいるのだろうか。 わからない。 違うから苦しいのだろうか。 わからない。 今の自分は、本当の幸福に向かって歩いているのだろうか。 わからない。
本当の幸福って何なのだろうか? わからない。
この部分の賢治はたぶん、神の御許へ召されることを本当のさいわいとしているのだろう。実際のところは、妹を病で亡くしてから法華経にのめり込んだという話を聞いたことがあるし、無宗教のわたしにはわからない。ただ、言葉として、言葉の織りなすイメージとしてうつくしいと思えるのだった。
全てをあたたかく包み込むような、癒し、許し、施し……様々なものを含めた意味で、大きく包み込んでくれるような存在があるようにイメージするのだ。神や天使といった具体的なものではない、もっと膨大な漠然としたイメージの何かが包み込んでくれるような感じが有ると思う。
スピリチュアルな観点からすると、ハイヤーセルフとか言うのに当たるのかね? どうだろ。
わたしの生活はにっちもさっちもいかないところまで来ている。精神的にも擦り減って限界のところまで来ている。そんな存在が本当に居るのなら、教えて欲しい。わたしは在るべくして今の状態に在るのか。どうすれば大きなさいわいに近づけるのか。どうすれば自分の生を生きられるのか。どうすれば健やかに生きられるのか…… そして助けて欲しい。救いの手を差し伸べて欲しい。抱きしめて欲しい。
自分で「やるはずがない」と言っていた自傷をしてから判ったことがある。自傷は、つまり自慰だ。想いの遂げられぬ自分を直接慰めているのだなと。習慣になるところも似ているのでは。慰める行為で自分を傷つけるのは矛盾しているように見えるが、傷をつけることが慰めなのだ。自分の意志でする以上、自慰行為であると思っている。それにしては主たる意味の自慰とは違い、代償を払わねばならないが。
親も自分も老いて行く。 この先。どう生きればいいのだろう。
やりたいことはいっぱいあっても、楽しい未来が浮かんでこない。
(071121 02:41 UP)
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