日常妄想
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2002年01月06日(日) |
『溺れている。』のこと。 |
『もう、新年はとっくに始まっている。わたしは、動かなければならないのに。焦る自分を尻目に、怠惰に溺れる自分を、どうにかしなければならない。』
+上記は、今日書いた別館の日記のくだりだが、これを書いて、ふと思ったのが、『遊女みたいだ』ということ。いわゆる"日常"とは離れた享楽の街での生活に溺れる、遊女。江戸時代あたりの遊廓で、春をひさいでいた女性のことだ。遊廓とは、吉原や京都の島原、といったあれである。 無論、今みたいに、お金が欲しいからとかいう、自分の意志で仕事をしているというのではなく、家の借金のカタにとか、生活のために売られてきたとか、悪い奴に騙されてこの道に入れられたとかいう、そういう、殆どが、止むに止まれぬ事情で体を売っていたであろう、女性たちのことだ。
日記の話題のなかで、吉原だの遊廓だのというのが挙がっているので、そこからの連想であるというのも考えられるが、『焦る自分を尻目に、怠惰に溺れる』という部分から、はたと連想したのが、遊女だったのだ。
歴史の時代、遊廓で客を取っていた遊女たちの多数は、自分の意志では遊女を辞めることはままならなかっただろうと想像する。事情があってこの仕事をしているのだから、理由の無い足抜けは罪である。嫌でも容易には辞められぬ。運がよければ、体も壊さず、無事に年期が明けて、辞めることができるかもしれないが、そんな、円満に解決をしたという話など、ドラマにも聞いたことが無い(笑) 実際には、あったのかもしれないけれどね。 金持ちの旦那に気に入られ、身請けされて、花街を出てゆく、というケースもあるだろう。しかし、それだって、嫌な奴に身請けされでもしたら、ますます地獄だ。
とにかく、退廃的なイメージ。街の賑やかさ、明るさの底に渦を巻く、やりきれなさ。諦め。物悲しさ。現実からの逃避。外の世界への憧れ。儚い期待。帰るところの無い孤独。このイメージが、今の自分の状態に重なると、考えた。
溺れている、というのは、どうにもならない現実を、そういうものだと諦めて、それに甘んじている、ということ。自分の置かれている状態に酔っている、ということ。さもなくば、そのまんま、自分の今居る状態から抜け出そうと、必死になってアップアップと足掻いている、ということ。 いつかはこんなところから抜け出して、と遠くを見ながら、毎日、ただ銭のためだけに客を取る。自由を夢見ながら、病に取り付かれて、戻れなくなる。つらいだけの日々のなかに、いつしか居場所を見い出して、憧れていたものを手放す。忘れる。現状と違う自分を忘れようと振る舞う。嘆くだけで、どうにもならない自分。
うーん。わたしが花街や花魁(太夫)を好きなのは、共通するスピリットを感じるからなのか!?(笑) って、まぁ、言ってみれば某ボンノーがあるからなのだがー ( ̄▽ ̄)(笑)、もしかしたらそれも、根底にあるものに共感なり共通点なりを感じてのことなのかもしれない。
+とにかく、そんなことを思ったのだった。わたしは、嘆き、足掻き、甘んじて流され、溺れている… 自由を許されない遊女のような息苦しさを感じ、焦燥を感じ、自由を信じ続ける遊女のように願い、憧れ、自由を鼻で笑う遊女のように恐怖し、溺れている。 快楽は、ひとを酔わせるが、駄目にもさせる。快楽に溺れてる、とも言えますな。…仕事(時間)に縛られない、という快楽ね(笑) 快楽に溺れつつ、生活費のこととかね…自分のこれからのこととか。自分自身にとか、苦しんでいる。ほらほら。このへんの後ろ暗さも遊女っぽいよーな気が!?( ̄▽ ̄)
いまのところ、わたしは苦しんでいる自分に溺れている。苦しんでいるだけで、現状から脱するための行動を起こしていないからだ。現実に抵抗するためのことを、なにもしていない。渇望はしているのだが、それだけで、自分を変えるための行動をしていない。なにもできていない。 焦りながらも、自分の置かれている状況に、見事に溺れてしまっているのだ。
苦しい。苦しいが、これを解消するべく動かない、動けない自分に、狂気を感じる。狂って、歪んだものを感じる。そして、自分を異常だと考えることを、言い訳だと、逃避だとして呆れる自分が居る。自分のことはわかっているのだという、達観した態の自分が居る。藁をも縋りたい心持ちの自分が居る。投げ出したくなる半面、哀れみを強く感じて、自分を抱き締めてやりたいと思う自分が居る。 ああ。
こうやって自分を綴るのもきっと、溺れていることの現れなのでしょう。
(0107 04:40 UP)
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