おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
3年前かな、ばあちゃんが亡くなったとき、僧侶は「死んだら誰でもこの世の穢れ一切が祓われて仏になる(と教えられています)」とのたまった。自分の信心ではなく、誰かがそういっていますというのが汚い。耳障りよく聞こえるかもしれないが、そこにはいっぺんの真理も存在しない。
現在の人間の数は、過去に生まれた人間の数と同じくらいだと聞いたことがある。そんなにたくさんの仏がいるなら、少しは救ってくれたっていいじゃないかと思うのだけどね。あるいはその力がないのか。全員、生まれ変わってそれどころではないのか。 それに、どのような人生を歩んできたかに関わらず、誰でも死んだら清らかな仏になるというなら、この世の人生は無意味ですといっているに等しい。 そんな馬鹿な。 意味はある。あるからこその人生のはずだ。 もし、来世があるなら、死んだその時点の自分から(新しい体で)リスタートでなくてはおかしい。仏が一人でも生まれてきたか? 生まれたばかりの子は仏のようかもしれないが、それはその魂がその体にまだ浸透していないからだといえる。もし、仏ならどうして途中で薄汚れてしまうのか。仏とはその程度のものなのかということになる。 輪廻転生。薄汚れてぼろぼろになって死んで仏となり、また生まれてきて薄汚れて死んでいく繰り返しを何故しているのか、仏になるというだけでは何も見えてこない。 生まれ変わりはリセットではない。それこそ無意味だということになってしまう。むろん、前世のことは覚えていないが(なかには覚えている人もいるらしいけども)、その親、その体、個性、得て不得手、好き嫌いなど、その人とその人を取り巻く環境すべてに、「続き」と刻まれているのだ。 覚えていないということは覚えていなくてもいいから覚えていないのである。いや、覚えていては困る。何十回、何百回と生まれ変わってきて、ちくいち覚えていたら発狂してしまう。ただ、過去生のエキスだけは魂に刻み込まれていて、それが今世に展開するのだ。 戒名も読経も、あるいは施餓鬼も、神――あるいは仏、宇宙といっていいかもしれないが、そういうレベルで見たとき意味などない。だいたい、死んだもの――この世を去ったものをいつまで大事に拝んだらいいというのか。 あの世があり、そちらへ逝くというなら、いつまでもこちらで哀しまれたら後ろ髪を引かれて逝けないではないか。墓など立てて、手を合わせられても困る。困りません?(笑) 早く忘れて(むろん、思い出すことはあるにせよ)、こちらはこちら、あちらはあちらでそれぞれいいようにするのが自然だと思う。寂しいかもしれないが、いつかは自分もそちらに逝くのだし、それまでは、こちら側の生きている人間同士のほうが大事かと。
おおみち礼治
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